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2025.04.16 Wednesday
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zodiac
2012.05.24 Thursday
王は能無し。
マンションの下階の老人が天井をつついているのか床を叩いているのか知りませんけど、いまだに突然ドガッという騒音がしたり窓が激しく閉められてパコーンと異常な騒音を聞かされたりします。ネットで老害といって老人たちを叩く連中が居ますけど、現在60代くらいの全共闘な連中の無責任と自由を履き違えた自由勝手な国に崩壊するまで借金をさせたやらかしを鑑みると、彼らを老害といって叩く連中の行いも一概には否定できないと言いたくはなります。
近頃のストーカーで、私が外を歩いていてその顔を視認するために一瞬見ると即顔をしかめてくるのが居るんですけど、私も当然外を歩いていて何処の誰だか分からない人間がどういった行動を取るか分からないというのがあるので当然自己防衛の為に視覚で確認をします、突然ナイフを持って襲い掛かってくるとも限らないので。彼らストーカーは自分らは被害者に対して絶対的に自分らが加害者であることを証明できない加害者側からも証明され得ないという強みを持っているので、被害者が直接的に何を言おうが行おうが無駄なんですね。むしろそれを待っているくらいの気があります。先の記事でも書いたように、警察でも全く対応は不可能であると私SSは告げられましたし、だから昔で言うところのそこらへんのチンピラが絡んできている程度に考えて無視するということしか被害者には対策を練ることができません。何を正当者ぶってるんだか知りませんけど、とは言いたくなります。
ストーカー行為は先にも書いたように「右の定常点から左へとあの手この手で釣って流して引っ張ろうとする」というこれに尽きるんですけど、つまりおそらくは自分をidentifyすることだけが能であるような人間を作り出してそして実際ある程度仕立て上げの後にそれを行わせて証明をとる、ということを行っているということです。どこやらの教祖サマみたいに仕立て上げるというか、先の記事で書いた逆ナチスを行ってそしてその象徴たる人間にはその人間が象徴であることすらも伝えない伝え得ないその自覚を与えないということです。頭の良い人間はこれには乗りませんけど、私SSは抗精神病薬によって乗せられてしまいました。つまり反抗させる為に反抗させているということであって、まさに赤化が赤化を巻き起こすアカの所業です。
他者を貶めて「騙される方が悪いのさ」といったセリフをホザく人間には、つまり右の定常点から左へ流されてしまっている人間のへの非難が込められているんですね。しかし現実的な問題として、おヤクザさん以外に「右」の定常点に存している(ことになっている)人間は居ませんから、やはり騙される方より騙す方の人間の方が悪いに決まってます。
英語ではVice or Virtueという表現の仕方をしますけど、左がviceで右がvirtueであるのが正しいのであって、「良悪」や「善悪」というのは語順的に正しくないです。
太宰治の小説は私小説であって、三島由紀夫の小説は詩小説です。前者はこれはこれで個々人の嗜好に適う場合が多々ありますけど、後者はあまりにも学ぶところが多いです。
私は腕力が弱くて野球のバットを振り回せないんですけど、代わりにサランラップの芯を使ってます。右手にサランラップの芯を持ちながら 右腕を腰の位置あたりまで持ってきて∞の文様を左側で右回転・右側で左回転を描くようにして手首を動かします。そうすると肘の関節を基点に上腕と下腕の間が100度くらい空いた状態でちょうどいい感じに定常します。これをひたすらやっているだけで体のバランスが良くなって肩や背中や腕の筋肉の凝りがよく取れます。
人を良くするフリをして悪くする、もしくは悪い人間に修正の処置を施す人間はストレスが溜まっている状態ではないので「悪い」という状態を知ることができず悪人を良くする処置を施しているつもりのところが実は悪くする処置を施してしまっていた、というのがパスカルの書いたものを読むあたりでのカトリックではあります(抗精神病薬リスパダールは実態としてこういった薬物です)。だから少なくとも現代のカトリック教会の神父さんたちに悪意が在るとかIgnatius de Loyoraが放火魔属性を持っているとかそういったことではなくて、「悪い」という状態を知らない人間は悪い状態がどういったものであるか理解できないので上手く対応策を施すことができないということです。女性はおそらく不快な経験を「腑に落として」しまうんで、よっぽと賢い女性でない限りは悪い行いやそれの対応策としての悪事をやらかしてしまいます。
やっぱり身体に関することというのは絶対的に決まってます、すくなくとも現時点でそう考えることには絶大なメリットがあります。マンガで出てくるような脳ミソだけでどうこうとかを含めて、石器時代の原人から現代の人間への変化のように今後ヒトの肉体の外形が大きく変化するということはないです(と考えると物事上手くいきます)。
物事を理解するにおいて蓋然性を持つようになる、つまり蓋然的に物事を鑑みるようになると、完全主義的な嗜好が生まれて精神的に病気になるだけでなく肉体的にも病んでいきます。「蓋然性」というのはそういうことです。私は何でも記憶してしまう何でも暗記する癖がある、というかそうしないとあまり物事こなせないという病的なクセみたいなものを精神的にも肉体的にも子供の頃から持っていたんですけど、精神的にどうこうの病気、怪我や露骨な内臓疾患以外で肉体的にどうこうの病気というのは、つまるところ「病気」という名で表されるdie Krankheitだと考えると分かりやすいです。自分の肉体のこと以外に情報を過度に溜め込みすぎると、ヒトにおいてそれがストレスになるということはあります。だから賢い人間はやはり勉強以外のことはあまりやらないということであって、自分の頭の良さにかまけて何でもかんでも「面白いもの」とやらに飛びついていると自分で自分の足元をすくってしまうことになります、ヤバいです。
過食症者は、食事や食物において蓋然性を「見て」しまうつまり認識してしまう為そこにあるものを全て食い切ってしまわなければいけないと半ば無意識的に思い込んでしまい過食に走る癖とでも呼びうるものがあります。先の記事で引っ張ってきたアウグスティヌスの書いたもので警告されているように、苦痛を快感であると勘違いして思い込んでしまっている病気の状態というのはヒトの肉体において大昔からあったということです。過食症と拒食症が併発することはおそらくないです。やっぱりある程度以上には頭の良いゲーマーなオタクのお兄さんたちに肥満体の人間が多いのも道理です。私も体が大分悪いんですけど、精神を病んでいる人間は肉体の外形が異常である場合が多い、というか老人的であると言うことができます。「(悪)気は(肉体の)病から」ということであって、「精神的ストレス」という表現はナンセンスでありストレスというのは肉体に溜まるものであるということです。敢えて言うなら脳にストレスが溜まっている、とか。おそらく女性に多いですけど、運動をしてもその事後に不快な出来事の記憶が喚起されてしまってストレスが再発するという人は、それを解消する手段として言語化して記述してしまうというのがあります、ということです。
地図とかでも、日本が世界の中心にあって日付変更線が中央右の太平洋の中心にあるという世界地図は良くないです。日本が右端にあり日付変更線が左右両極の位置にあるのがおそらく見て眺めて勉強するのには適ってます。地球儀が一番いいですけど。
ヒットラーの「土地だけをゲルマン化すべし」というのは当該至極であり且つ同時にナンセンスです。少なくともこの2000年間で起こった歴史上の戦争というのは「土地の、土地による、土地のための戦争」です。領土獲得によって国土が変更されればその風土に基づいてそこに起こっている文化や言語も当然変わってきます。それによって人も変わります。つまりゲルマンはゲルマンの領土においてゲルマンたりうるということであって、ヘーゲル先生もおそらくこういったことを言ってますけど、それがthe historical present(文法用語)ということであって、領土の獲得によって現在の現在たる自文化の浸透する領域を増やすというのがこれナンセンスなわけです。領土の領域が変われば、例えば「ゲルマン」なる自文化は当然変形を余儀なくされます。
何か痛いしっぺ返しを食らって「懲りる」というのはたぶん「凝りる」ということです。人間やはり情報をreadして呑み込んでしまうと、それは腑に落とすということであってつまり体が硬直します。筋肉が凝ります。homeostasis(恒常性)という言葉もありますけど、異常な状態で定常してしまうと、それが「病気」だ、ということです。
マンションの下階の老人が天井をつついているのか床を叩いているのか知りませんけど、いまだに突然ドガッという騒音がしたり窓が激しく閉められてパコーンと異常な騒音を聞かされたりします。ネットで老害といって老人たちを叩く連中が居ますけど、現在60代くらいの全共闘な連中の無責任と自由を履き違えた自由勝手な国に崩壊するまで借金をさせたやらかしを鑑みると、彼らを老害といって叩く連中の行いも一概には否定できないと言いたくはなります。
近頃のストーカーで、私が外を歩いていてその顔を視認するために一瞬見ると即顔をしかめてくるのが居るんですけど、私も当然外を歩いていて何処の誰だか分からない人間がどういった行動を取るか分からないというのがあるので当然自己防衛の為に視覚で確認をします、突然ナイフを持って襲い掛かってくるとも限らないので。彼らストーカーは自分らは被害者に対して絶対的に自分らが加害者であることを証明できない加害者側からも証明され得ないという強みを持っているので、被害者が直接的に何を言おうが行おうが無駄なんですね。むしろそれを待っているくらいの気があります。先の記事でも書いたように、警察でも全く対応は不可能であると私SSは告げられましたし、だから昔で言うところのそこらへんのチンピラが絡んできている程度に考えて無視するということしか被害者には対策を練ることができません。何を正当者ぶってるんだか知りませんけど、とは言いたくなります。
ストーカー行為は先にも書いたように「右の定常点から左へとあの手この手で釣って流して引っ張ろうとする」というこれに尽きるんですけど、つまりおそらくは自分をidentifyすることだけが能であるような人間を作り出してそして実際ある程度仕立て上げの後にそれを行わせて証明をとる、ということを行っているということです。どこやらの教祖サマみたいに仕立て上げるというか、先の記事で書いた逆ナチスを行ってそしてその象徴たる人間にはその人間が象徴であることすらも伝えない伝え得ないその自覚を与えないということです。頭の良い人間はこれには乗りませんけど、私SSは抗精神病薬によって乗せられてしまいました。つまり反抗させる為に反抗させているということであって、まさに赤化が赤化を巻き起こすアカの所業です。
他者を貶めて「騙される方が悪いのさ」といったセリフをホザく人間には、つまり右の定常点から左へ流されてしまっている人間のへの非難が込められているんですね。しかし現実的な問題として、おヤクザさん以外に「右」の定常点に存している(ことになっている)人間は居ませんから、やはり騙される方より騙す方の人間の方が悪いに決まってます。
英語ではVice or Virtueという表現の仕方をしますけど、左がviceで右がvirtueであるのが正しいのであって、「良悪」や「善悪」というのは語順的に正しくないです。
太宰治の小説は私小説であって、三島由紀夫の小説は詩小説です。前者はこれはこれで個々人の嗜好に適う場合が多々ありますけど、後者はあまりにも学ぶところが多いです。
私は腕力が弱くて野球のバットを振り回せないんですけど、代わりにサランラップの芯を使ってます。右手にサランラップの芯を持ちながら 右腕を腰の位置あたりまで持ってきて∞の文様を左側で右回転・右側で左回転を描くようにして手首を動かします。そうすると肘の関節を基点に上腕と下腕の間が100度くらい空いた状態でちょうどいい感じに定常します。これをひたすらやっているだけで体のバランスが良くなって肩や背中や腕の筋肉の凝りがよく取れます。
人を良くするフリをして悪くする、もしくは悪い人間に修正の処置を施す人間はストレスが溜まっている状態ではないので「悪い」という状態を知ることができず悪人を良くする処置を施しているつもりのところが実は悪くする処置を施してしまっていた、というのがパスカルの書いたものを読むあたりでのカトリックではあります(抗精神病薬リスパダールは実態としてこういった薬物です)。だから少なくとも現代のカトリック教会の神父さんたちに悪意が在るとかIgnatius de Loyoraが放火魔属性を持っているとかそういったことではなくて、「悪い」という状態を知らない人間は悪い状態がどういったものであるか理解できないので上手く対応策を施すことができないということです。女性はおそらく不快な経験を「腑に落として」しまうんで、よっぽと賢い女性でない限りは悪い行いやそれの対応策としての悪事をやらかしてしまいます。
やっぱり身体に関することというのは絶対的に決まってます、すくなくとも現時点でそう考えることには絶大なメリットがあります。マンガで出てくるような脳ミソだけでどうこうとかを含めて、石器時代の原人から現代の人間への変化のように今後ヒトの肉体の外形が大きく変化するということはないです(と考えると物事上手くいきます)。
物事を理解するにおいて蓋然性を持つようになる、つまり蓋然的に物事を鑑みるようになると、完全主義的な嗜好が生まれて精神的に病気になるだけでなく肉体的にも病んでいきます。「蓋然性」というのはそういうことです。私は何でも記憶してしまう何でも暗記する癖がある、というかそうしないとあまり物事こなせないという病的なクセみたいなものを精神的にも肉体的にも子供の頃から持っていたんですけど、精神的にどうこうの病気、怪我や露骨な内臓疾患以外で肉体的にどうこうの病気というのは、つまるところ「病気」という名で表されるdie Krankheitだと考えると分かりやすいです。自分の肉体のこと以外に情報を過度に溜め込みすぎると、ヒトにおいてそれがストレスになるということはあります。だから賢い人間はやはり勉強以外のことはあまりやらないということであって、自分の頭の良さにかまけて何でもかんでも「面白いもの」とやらに飛びついていると自分で自分の足元をすくってしまうことになります、ヤバいです。
過食症者は、食事や食物において蓋然性を「見て」しまうつまり認識してしまう為そこにあるものを全て食い切ってしまわなければいけないと半ば無意識的に思い込んでしまい過食に走る癖とでも呼びうるものがあります。先の記事で引っ張ってきたアウグスティヌスの書いたもので警告されているように、苦痛を快感であると勘違いして思い込んでしまっている病気の状態というのはヒトの肉体において大昔からあったということです。過食症と拒食症が併発することはおそらくないです。やっぱりある程度以上には頭の良いゲーマーなオタクのお兄さんたちに肥満体の人間が多いのも道理です。私も体が大分悪いんですけど、精神を病んでいる人間は肉体の外形が異常である場合が多い、というか老人的であると言うことができます。「(悪)気は(肉体の)病から」ということであって、「精神的ストレス」という表現はナンセンスでありストレスというのは肉体に溜まるものであるということです。敢えて言うなら脳にストレスが溜まっている、とか。おそらく女性に多いですけど、運動をしてもその事後に不快な出来事の記憶が喚起されてしまってストレスが再発するという人は、それを解消する手段として言語化して記述してしまうというのがあります、ということです。
地図とかでも、日本が世界の中心にあって日付変更線が中央右の太平洋の中心にあるという世界地図は良くないです。日本が右端にあり日付変更線が左右両極の位置にあるのがおそらく見て眺めて勉強するのには適ってます。地球儀が一番いいですけど。
ヒットラーの「土地だけをゲルマン化すべし」というのは当該至極であり且つ同時にナンセンスです。少なくともこの2000年間で起こった歴史上の戦争というのは「土地の、土地による、土地のための戦争」です。領土獲得によって国土が変更されればその風土に基づいてそこに起こっている文化や言語も当然変わってきます。それによって人も変わります。つまりゲルマンはゲルマンの領土においてゲルマンたりうるということであって、ヘーゲル先生もおそらくこういったことを言ってますけど、それがthe historical present(文法用語)ということであって、領土の獲得によって現在の現在たる自文化の浸透する領域を増やすというのがこれナンセンスなわけです。領土の領域が変われば、例えば「ゲルマン」なる自文化は当然変形を余儀なくされます。
何か痛いしっぺ返しを食らって「懲りる」というのはたぶん「凝りる」ということです。人間やはり情報をreadして呑み込んでしまうと、それは腑に落とすということであってつまり体が硬直します。筋肉が凝ります。homeostasis(恒常性)という言葉もありますけど、異常な状態で定常してしまうと、それが「病気」だ、ということです。
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Soumatou
2012.05.26 Saturday
闇。
"Frailty, thy name is woman!"、キリスト教社会の中心には罪人が居る。
アテネの空の青さ。
江来博士。
雷親父は禿げ頭。
「実績を残すことによって生きる」という発想さえ持っていれば、それが子供の時分であれイジメなんか大した苦にならないんですね。というか男が一見したところではイジめとしか見えないものをやらかす場合は実績を残すことを教えて分からせるという目的で行われるといっても過言ではないです。女のイジメは知りませんけど。
私も少年期から青年期までずっとそうでしたけど、オタクというのはこの発想に欠けてます。だから簡単に悪質な人間やその産物に釣られてしまいます。私SSはそんなに気が弱い方ではないんでそこらへんのチンピラみたいのは怒鳴り返して追い返しますけど、「面白いもの」に釣られるオタクな状態だといとも簡単に負の材料を敵方に与えてしまってしかもそれに気付かないどころか喜んであげるくらいになってしまいます。過度のcommunicationizedの表れです。ドラゴンボールとかのマンガで出てくるような筋肉ムキムキマッチョな場のコンテクストたる「見た目」に騙されて、ああいったチンピラの悪党共が汚いことをやらない正義感であるかのような錯覚を昔の子供や子供のままオタクになった人間は抱かされてしまっていた(る)ということです。現象的な実態としては真逆である場合が多々ある(在る)のであり、オタクや真面目な人間たちをエサに他者を貶し引き摺り下ろすためならば何でもやるという見た目清潔好男子なゴブリンみたいのが少なくとも現代日本ではウヨウヨ居ます。ちなみに真面目というのは「真」+「面」+「目」であって、キリスト教徒は皆真面目であるという表現が適います。
人間が陥りやすい視覚情報ということで考えるのならば、場の形象に世界を見て、歴史的事実をそこに当てはめ一種の合理化を行いそして歴史的真実を編み出すのならばそれは当然の如く歴史的真実たり得るということです、人間の身体に基づく。歴史というものはそうやって作られるということです。Leonard da Vinciの絵で人間の五体をそういう様に表現しているものがあったような気がします。
「言論テロ」というのはナンセンスな表現です。言論はテロではなく、テロリズムというのは物理的に行われるものだからです。
例えば、謝るということはどういうことなのかということにも問題の本質が現れて(表れて)いるのであって、これは身体というものはどういうものなのかということをきちんと鑑みるべく原点に立ち返るということです。「言」+「身」+「寸」、というよりは、「言」→「身」→「寸」ということです。「~的」という表現が、文章表現における万物の元凶だったりもします。そもそも現代日本の義務教育では「分かる」ということがどういうことなのかということをそもそもからして教えないかもしくはその発想自体を子供の頃から奪ってしまうか、という教育をやってました。
同時に「ある程度体を(思春期あたりまでに)作ってしまえば……あとはそれをベースに何をやってもよい」という一見したところではキリスト教的なしかしアンチクライスト以外の何ものでもない猿的な発想もまた万物の元凶です。猿は芝居を打った挙句に失敗して木から滑り落ちる、とか。
「普遍は個物に先立って存在する」という実在論・実念論も、「個物の後に普遍が作られる」としている唯名論・名目論も、「実在論(実念論)」や「唯名論(名目論)」という漢字を使った名詞からだけでは、一体どういうものかそれを理解することは不可能です。下手をすればその内容を名称とは真逆であると勘違いします。また「普遍は個物に先立って存在する」という説明や「個物の後に普遍が作られる」という説明だけであっても誤認が発生します。つまりそれこそ唯名(論)的に「実在論(実念論)」や「唯名論(名目論)」というものを捉えただけでは、誤認が発生します。例えば、日本語よりは分かりやすいものであるということで、英語だと、前者はrealismであり後者はnominalismです。以下パスカルの「パンセ」より少しだけ引用。
「 詩的な美ということが言われるように、幾何学的な美、医学的な美ということが言われていいはずである。しかし、人はそうは言わない。その理由は、幾何学の目的が何であるかということと、そしてそれが証明にあるということ、また医学の目的が何であるかということ、そしてそれが治療にあるということを、人々はよく知っているからである。けれども、詩の目的である快さがどこに存するかを、人々は知らない。模倣すべき自然的な原型がいかなるものであるかを、人々は知らない。そしてそれを知らないために、人々は奇妙な表現を考え出した。『黄金時代」』「『現代の驚異』『宿命的』等々。こういうきざな言いぐさを、人々は詩的な美と呼んでいる。
しかし、小さなことを大げさなことばで言いあらわすところに存するこの種の原型にしたがって、一人の女を想像する人は、たくさんの鏡や鎖で飾りたてたきれいなお嬢さんを思いうかべて、笑い出すであろう。詩の快さがどこに存するかということよりも、女の快さがどこに存するかということのほうが、わかりやすいからである。けれども、それがわからない人は、そういう装いをした女を賛美するかもしれない。また、彼女を女王と見間違えるような村も多いことであろう。だからわれわれは、そのような原型に基づいて作られたソネットを、村の女王と呼ぶ。」
私はフランス語をさっぱり読めないですし、もちろんこれは日本語訳をただ持ってきたものです。で、これだけだと語弊が生じます。たとえば、「『黄金時代』『現代の驚異』『宿命的』等々」という箇所、というのは漢字が使われている日本語ではこれはこれで詩的なものとしても通用するからです。
頭の悪い人間にこういったことを言う人が多いですけど、他者に対して「分かっていない、分かっていない」と言うのは、自分らの無能力さが故に「一見したところでは分かっていなそうな」事を行う人間に対して湧く疑念に捕らわれているだけであり、当の言う側の人間が自分にとって分かっていない現象について分かり得ないという事態がそこに存在するだけであるケースがほとんどである、ということです。しかし悪いことをやる人間というのは居るのであって、事あるごとにこういったことを言って他者に注意を促してくれる人間が必要であることは間違いが無いです。
"Frailty, thy name is woman!"、キリスト教社会の中心には罪人が居る。
アテネの空の青さ。
江来博士。
雷親父は禿げ頭。
「実績を残すことによって生きる」という発想さえ持っていれば、それが子供の時分であれイジメなんか大した苦にならないんですね。というか男が一見したところではイジめとしか見えないものをやらかす場合は実績を残すことを教えて分からせるという目的で行われるといっても過言ではないです。女のイジメは知りませんけど。
私も少年期から青年期までずっとそうでしたけど、オタクというのはこの発想に欠けてます。だから簡単に悪質な人間やその産物に釣られてしまいます。私SSはそんなに気が弱い方ではないんでそこらへんのチンピラみたいのは怒鳴り返して追い返しますけど、「面白いもの」に釣られるオタクな状態だといとも簡単に負の材料を敵方に与えてしまってしかもそれに気付かないどころか喜んであげるくらいになってしまいます。過度のcommunicationizedの表れです。ドラゴンボールとかのマンガで出てくるような筋肉ムキムキマッチョな場のコンテクストたる「見た目」に騙されて、ああいったチンピラの悪党共が汚いことをやらない正義感であるかのような錯覚を昔の子供や子供のままオタクになった人間は抱かされてしまっていた(る)ということです。現象的な実態としては真逆である場合が多々ある(在る)のであり、オタクや真面目な人間たちをエサに他者を貶し引き摺り下ろすためならば何でもやるという見た目清潔好男子なゴブリンみたいのが少なくとも現代日本ではウヨウヨ居ます。ちなみに真面目というのは「真」+「面」+「目」であって、キリスト教徒は皆真面目であるという表現が適います。
人間が陥りやすい視覚情報ということで考えるのならば、場の形象に世界を見て、歴史的事実をそこに当てはめ一種の合理化を行いそして歴史的真実を編み出すのならばそれは当然の如く歴史的真実たり得るということです、人間の身体に基づく。歴史というものはそうやって作られるということです。Leonard da Vinciの絵で人間の五体をそういう様に表現しているものがあったような気がします。
「言論テロ」というのはナンセンスな表現です。言論はテロではなく、テロリズムというのは物理的に行われるものだからです。
例えば、謝るということはどういうことなのかということにも問題の本質が現れて(表れて)いるのであって、これは身体というものはどういうものなのかということをきちんと鑑みるべく原点に立ち返るということです。「言」+「身」+「寸」、というよりは、「言」→「身」→「寸」ということです。「~的」という表現が、文章表現における万物の元凶だったりもします。そもそも現代日本の義務教育では「分かる」ということがどういうことなのかということをそもそもからして教えないかもしくはその発想自体を子供の頃から奪ってしまうか、という教育をやってました。
同時に「ある程度体を(思春期あたりまでに)作ってしまえば……あとはそれをベースに何をやってもよい」という一見したところではキリスト教的なしかしアンチクライスト以外の何ものでもない猿的な発想もまた万物の元凶です。猿は芝居を打った挙句に失敗して木から滑り落ちる、とか。
「普遍は個物に先立って存在する」という実在論・実念論も、「個物の後に普遍が作られる」としている唯名論・名目論も、「実在論(実念論)」や「唯名論(名目論)」という漢字を使った名詞からだけでは、一体どういうものかそれを理解することは不可能です。下手をすればその内容を名称とは真逆であると勘違いします。また「普遍は個物に先立って存在する」という説明や「個物の後に普遍が作られる」という説明だけであっても誤認が発生します。つまりそれこそ唯名(論)的に「実在論(実念論)」や「唯名論(名目論)」というものを捉えただけでは、誤認が発生します。例えば、日本語よりは分かりやすいものであるということで、英語だと、前者はrealismであり後者はnominalismです。以下パスカルの「パンセ」より少しだけ引用。
「 詩的な美ということが言われるように、幾何学的な美、医学的な美ということが言われていいはずである。しかし、人はそうは言わない。その理由は、幾何学の目的が何であるかということと、そしてそれが証明にあるということ、また医学の目的が何であるかということ、そしてそれが治療にあるということを、人々はよく知っているからである。けれども、詩の目的である快さがどこに存するかを、人々は知らない。模倣すべき自然的な原型がいかなるものであるかを、人々は知らない。そしてそれを知らないために、人々は奇妙な表現を考え出した。『黄金時代」』「『現代の驚異』『宿命的』等々。こういうきざな言いぐさを、人々は詩的な美と呼んでいる。
しかし、小さなことを大げさなことばで言いあらわすところに存するこの種の原型にしたがって、一人の女を想像する人は、たくさんの鏡や鎖で飾りたてたきれいなお嬢さんを思いうかべて、笑い出すであろう。詩の快さがどこに存するかということよりも、女の快さがどこに存するかということのほうが、わかりやすいからである。けれども、それがわからない人は、そういう装いをした女を賛美するかもしれない。また、彼女を女王と見間違えるような村も多いことであろう。だからわれわれは、そのような原型に基づいて作られたソネットを、村の女王と呼ぶ。」
私はフランス語をさっぱり読めないですし、もちろんこれは日本語訳をただ持ってきたものです。で、これだけだと語弊が生じます。たとえば、「『黄金時代』『現代の驚異』『宿命的』等々」という箇所、というのは漢字が使われている日本語ではこれはこれで詩的なものとしても通用するからです。
頭の悪い人間にこういったことを言う人が多いですけど、他者に対して「分かっていない、分かっていない」と言うのは、自分らの無能力さが故に「一見したところでは分かっていなそうな」事を行う人間に対して湧く疑念に捕らわれているだけであり、当の言う側の人間が自分にとって分かっていない現象について分かり得ないという事態がそこに存在するだけであるケースがほとんどである、ということです。しかし悪いことをやる人間というのは居るのであって、事あるごとにこういったことを言って他者に注意を促してくれる人間が必要であることは間違いが無いです。
Air
2012.05.31 Thursday
教徒大学。
夜チラホラ歩いている中学生や小学生ですらを見ることがあるんですけど大人が子供を使ってるんですね。住宅街であるにもかからわらず高頻度でそれが見られるということで確実に昔の不良少年(を演じている)というアレです。で、もうストーカー云々は語りつくした感があるので、以下子供を使って反社会的人間へと育成しようとしているゴミクズな大人について書きます。
現状では、自分から進んで反社会的人間を志向するクズは論外ですけど、くだらない受験競争等もそうですし何らかの貶めや差別のようなもので社会から排斥された人たちが居ます。だから、そういう今生きている人たちが年を取って普通に亡くなってだんだんと数を減らしていくということを念頭においた上でそういった人たちの面倒を見てくれる人たちが居てくれるというのは至極当然ではあります。が、それがやらせの演技であれその他どういった形であれそういった他者に危害を加えるような犯罪行為に子供を加担させるということは論外なのは言うまでもないです。それに加担させられる子供が、どっかから小遣いでももらってのバイト感覚で行っていたところで、彼らは犯罪者コースを歩むことになるんですね。
他人にウザがられる人間の典型として、コミュニケーションにおいて「他者がこういう対応をしてきた場合はこういう対応をする」というように、コミュニケーションつまり人間関係を工学化してとり行う馬鹿が居ますけど、絶対的にこれは失敗します。そういうことを行っても失敗するように出来てます。このネットが普及した時代にはこういった人間は減っているでしょうけど、この類の人間の対人関係における場対応というのはコミュニケーションの相手である他人からは見ていて非常に不快であり、ウザいです。
村上春樹さんの小説というのは基本的に読んでいて反吐が出そうになるくらいにイタいんですけど、この小説家はおそらくは人にウザがられる人間の典型です。アベラール的というか、ブサイクだとか卑屈だとかを通り越して、「何なのお前は?」というお話です。
自分にとって耐え難い事実や経験をなるべく簡潔な形でそれに遭遇する度に音声言語化して口頭で発するという一見した時点で非常にウザい人間が居ますけど、コレは行う度に自他に悪い影響があるのであって、何より他人に対して激烈な不快感を煽ることこの上無く人間関係を自分から破壊しているのと同じです。酒を飲むことと似たようなものであって、おそらく対人関係だけではなく物事の識別能力が阻害されるというかそれをコントロールするための人格というものが崩壊していきます。村上春樹さんの小説というのはこの人間の行動のなんたるかにおいて音声言語化されたモノを文字化して羅列したようなものであって、読んでいて不快どころかこの人の書いたものの場合は何故かそれにまつわってネットで言うところの中二病臭い感じが異様なまでに漂ってきます。この小説家は明らかにつまはじきにされているのが見てとれますけど、こういったアベラール的人間はどこへ行ってもウザがられるんですね。もう今は騙される若者も居ませんけど、こういうのを一匹置いておいて釣れる奴は釣っとくか、こういうので釣られてしまう奴にはそれこそこういうの(ごとき)での釣られ役としての社会的ポジションを与えておくか、ということでセッティングされていただけです。私の父親はこの類の人間の典型なんですけど、この男二、三年前に亡くなった祖母(この男の実母)の葬式の時目が赤く腫れて泣いて血走っているように他人に見せるためのカラーコンタクトを入れていたんですね。前に出て本泣きしている叔父の後ろでまるで幼児のようにこの男は「はやくおわんないかなぁ~」という文字を顔面に貼り付けてモジモジソワソワしてるんですね。これが「他者がこういう対応をしてきた場合はこういう対応をする」の極みです。もう道化であってどうこうというよりは、最悪のクズであり同時にカスであるという以外には形容不可能です。
人種差別の一ということで黒人差別がどうこうという問題がありますけど、黒人は実際接してみるとウザいです。フランスとか行くと分かりますけど、白人さんはどの人も大抵どの人も親切ですけど、黒人さんは残念ながら排斥心も被排斥心も共に強く非常にウザいです。私はアメリカへ行ったことがないのでアメリカの黒人さんがどうかとは何も言えないんですけど、おそらくネットの動画で見れるような(自由を謳歌する)雰囲気を醸し出しているものと真逆だと考えるのが正解です、おそらく。
私は子供の頃、場対応能力が最善に物を言うバスケットボールが全く出来なくて、ピアノを弾くとき即興で弾けなくて音符を丸暗記して弾いてたんですけど、同時に他者とのコミュニケーションはあまり得意ではありませんでした。しかしそれを自覚的に理解はしていたのでそもそも活発に自分から進んで他者とコミュニケーションを取るということは行いませんでした。ウザがられる子供の典型というのは、コミュニケーション能力が低いのにもかかわらず何故か人気者になりたがって無理をする行動に典型的に表れてますけど、大人になってもこの間違えたところの欲求から抜け出せない人間がたまに居るんですね。こういった人格障害者というのは、その行動面においてつまるところ他者に嫌がらせをするという形でしか他者のコミュニケーションを取ることができません。つまりこういった異常者は他者に嫌がらせ等危害を加えるという行為でしか他者と関係を取り結ぶことができないということです。だから最悪の場合レイプとかに走ったりもします。レイプというのは工学化された人間関係の最たるものです。最悪です。
書かずと言ってまた書いてしまいますけど、ストーカーはこういったアベラール的不良人間が織り成しているものです。
精神科医の書く診断書の類というのは、「精神科医の診断書」であり、つまり人間の避けられない必然として「精神科医の(歪んだ)人となりが表れる議事記録」です。つまるところこの点からしても精神医学と文学は切り離せないということです。いくら精神科医が小学生の書くお友達感想文のような内容の文面を診断書に記述したからといってそれに乗せられるのではなく、それには手を付けずリトマス試験紙になってそのままお役所なり別のクリニックなりへと提出するのが最も賢いやり方です。
前世紀に日本でも日本のマスコミが宣伝していた通りに、普通冷戦というと米ソ両大国間とまたその傘下にある勢力をも含めての二大勢力の対立を指します。が、いわゆる東側と呼ばれる旧ソ連では冷戦というのはアメリカの政策を指していました。ちなみにロシア語では肯定の返事を(ローマ字のアルファベットで書くと)"Da."と言って返します、英語の"Yes."です。
漢字や日本語やそれに類する東アジア的なものを失わずに生きてゆきたいがしかし鎖国することはできない、というのであれば、さっさと英語を国語にすればよかったんです。これをやらないから「我々のシステムを壊すあいつらは『鬼畜米英』だ」という風に映ったということであって、そもそも富国強兵を謳って人口増やしながらシステムなんざ確立すらされていない分際でよくホザいたなという問題です。150年くらい前の明治の開国期に英語を国語にしろと言っていたのは二葉亭四迷ですけど、戦争なんか無い方がいいに決まってるんで、戦争という現象に有無を言わさず"Non,"を突き付けるのではなくて何故戦争が起こるのかというところから考えていくらでももっと賢いやり方があったはずなんですね。
特に理科系で多いんですけど、特に勉強する気もやりたい価値ある研究も無いのに自分に経歴としての箔を付けるために大学院へ行く人間が居て、そういったのは研究を指導する側の人間にとっては迷惑なんですね。研究内容にもよりますけど、少なくとも2012年現在で日本でそこへ行って価値があるような大学院というのは、私立大学のごく一部や国立旧帝一期校とかそういった最上層の大学のそのまたごく一部だけです。67年前に戦後日本が始まってから、延々と教育レベルは落ち続けているんで、クズみたいな内容の論文を書いたって何の役にも立たずまたどうしようもないんですね。理系とてそれは同じです。クズみたいな研究を大学院へ行ってやってクズみたいな論文を書いたところで、それがその研究者の間で役に立つでも何でもなく、しかもそれを書いた当人は研究者にな(れ)るわけでもなく、研究とは何の関係もない内容の仕事に就くだけであるのがオチというケースがほとんどです。単に経験として身に付けるにおいては大学院で受けられる教育というのは費用対効果や時間対効果が低過ぎるんですね。私の場合だと高校生であった時分に「今の時代、大学院なんかへ行けば行くほど就職は無くなるだけだぞ」忠告してくれた先生が居ましたけど、つまりは東大や東工大以外の中途半端な大学の大学院なんか行ったところで研究者になれるわけでもなく何の得にもならないぞ、ということなんですね。もし勉強したいだけならば、勉強なんて教授とコミュニケーションを取れる場があってあとは図書館が使えればいいんで、ワザと留年して籍だけ置いて図書館へ通って幅広い勉強をするというのもありです。何か最近はいろんな大学に教養学部の類が出来たみたいで(?)、実によろしいことだと私個人は勝手に思ってます。勉強は行うに越したことはないですけど、別に研究者になるでもないのに特定の学問を究極的に修めたところで何の役にも立たないからです。だから勉強するなら勉強するでその中身としてはそれぞれの人間がそれぞれにとって役立つと思われることを学んだ方がいいです、それが金銭的利得には直接結びつかないように一見したところでは思われる教養という胡散臭い言葉で表されるものとかであっても。
夜チラホラ歩いている中学生や小学生ですらを見ることがあるんですけど大人が子供を使ってるんですね。住宅街であるにもかからわらず高頻度でそれが見られるということで確実に昔の不良少年(を演じている)というアレです。で、もうストーカー云々は語りつくした感があるので、以下子供を使って反社会的人間へと育成しようとしているゴミクズな大人について書きます。
現状では、自分から進んで反社会的人間を志向するクズは論外ですけど、くだらない受験競争等もそうですし何らかの貶めや差別のようなもので社会から排斥された人たちが居ます。だから、そういう今生きている人たちが年を取って普通に亡くなってだんだんと数を減らしていくということを念頭においた上でそういった人たちの面倒を見てくれる人たちが居てくれるというのは至極当然ではあります。が、それがやらせの演技であれその他どういった形であれそういった他者に危害を加えるような犯罪行為に子供を加担させるということは論外なのは言うまでもないです。それに加担させられる子供が、どっかから小遣いでももらってのバイト感覚で行っていたところで、彼らは犯罪者コースを歩むことになるんですね。
他人にウザがられる人間の典型として、コミュニケーションにおいて「他者がこういう対応をしてきた場合はこういう対応をする」というように、コミュニケーションつまり人間関係を工学化してとり行う馬鹿が居ますけど、絶対的にこれは失敗します。そういうことを行っても失敗するように出来てます。このネットが普及した時代にはこういった人間は減っているでしょうけど、この類の人間の対人関係における場対応というのはコミュニケーションの相手である他人からは見ていて非常に不快であり、ウザいです。
村上春樹さんの小説というのは基本的に読んでいて反吐が出そうになるくらいにイタいんですけど、この小説家はおそらくは人にウザがられる人間の典型です。アベラール的というか、ブサイクだとか卑屈だとかを通り越して、「何なのお前は?」というお話です。
自分にとって耐え難い事実や経験をなるべく簡潔な形でそれに遭遇する度に音声言語化して口頭で発するという一見した時点で非常にウザい人間が居ますけど、コレは行う度に自他に悪い影響があるのであって、何より他人に対して激烈な不快感を煽ることこの上無く人間関係を自分から破壊しているのと同じです。酒を飲むことと似たようなものであって、おそらく対人関係だけではなく物事の識別能力が阻害されるというかそれをコントロールするための人格というものが崩壊していきます。村上春樹さんの小説というのはこの人間の行動のなんたるかにおいて音声言語化されたモノを文字化して羅列したようなものであって、読んでいて不快どころかこの人の書いたものの場合は何故かそれにまつわってネットで言うところの中二病臭い感じが異様なまでに漂ってきます。この小説家は明らかにつまはじきにされているのが見てとれますけど、こういったアベラール的人間はどこへ行ってもウザがられるんですね。もう今は騙される若者も居ませんけど、こういうのを一匹置いておいて釣れる奴は釣っとくか、こういうので釣られてしまう奴にはそれこそこういうの(ごとき)での釣られ役としての社会的ポジションを与えておくか、ということでセッティングされていただけです。私の父親はこの類の人間の典型なんですけど、この男二、三年前に亡くなった祖母(この男の実母)の葬式の時目が赤く腫れて泣いて血走っているように他人に見せるためのカラーコンタクトを入れていたんですね。前に出て本泣きしている叔父の後ろでまるで幼児のようにこの男は「はやくおわんないかなぁ~」という文字を顔面に貼り付けてモジモジソワソワしてるんですね。これが「他者がこういう対応をしてきた場合はこういう対応をする」の極みです。もう道化であってどうこうというよりは、最悪のクズであり同時にカスであるという以外には形容不可能です。
人種差別の一ということで黒人差別がどうこうという問題がありますけど、黒人は実際接してみるとウザいです。フランスとか行くと分かりますけど、白人さんはどの人も大抵どの人も親切ですけど、黒人さんは残念ながら排斥心も被排斥心も共に強く非常にウザいです。私はアメリカへ行ったことがないのでアメリカの黒人さんがどうかとは何も言えないんですけど、おそらくネットの動画で見れるような(自由を謳歌する)雰囲気を醸し出しているものと真逆だと考えるのが正解です、おそらく。
私は子供の頃、場対応能力が最善に物を言うバスケットボールが全く出来なくて、ピアノを弾くとき即興で弾けなくて音符を丸暗記して弾いてたんですけど、同時に他者とのコミュニケーションはあまり得意ではありませんでした。しかしそれを自覚的に理解はしていたのでそもそも活発に自分から進んで他者とコミュニケーションを取るということは行いませんでした。ウザがられる子供の典型というのは、コミュニケーション能力が低いのにもかかわらず何故か人気者になりたがって無理をする行動に典型的に表れてますけど、大人になってもこの間違えたところの欲求から抜け出せない人間がたまに居るんですね。こういった人格障害者というのは、その行動面においてつまるところ他者に嫌がらせをするという形でしか他者のコミュニケーションを取ることができません。つまりこういった異常者は他者に嫌がらせ等危害を加えるという行為でしか他者と関係を取り結ぶことができないということです。だから最悪の場合レイプとかに走ったりもします。レイプというのは工学化された人間関係の最たるものです。最悪です。
書かずと言ってまた書いてしまいますけど、ストーカーはこういったアベラール的不良人間が織り成しているものです。
精神科医の書く診断書の類というのは、「精神科医の診断書」であり、つまり人間の避けられない必然として「精神科医の(歪んだ)人となりが表れる議事記録」です。つまるところこの点からしても精神医学と文学は切り離せないということです。いくら精神科医が小学生の書くお友達感想文のような内容の文面を診断書に記述したからといってそれに乗せられるのではなく、それには手を付けずリトマス試験紙になってそのままお役所なり別のクリニックなりへと提出するのが最も賢いやり方です。
前世紀に日本でも日本のマスコミが宣伝していた通りに、普通冷戦というと米ソ両大国間とまたその傘下にある勢力をも含めての二大勢力の対立を指します。が、いわゆる東側と呼ばれる旧ソ連では冷戦というのはアメリカの政策を指していました。ちなみにロシア語では肯定の返事を(ローマ字のアルファベットで書くと)"Da."と言って返します、英語の"Yes."です。
漢字や日本語やそれに類する東アジア的なものを失わずに生きてゆきたいがしかし鎖国することはできない、というのであれば、さっさと英語を国語にすればよかったんです。これをやらないから「我々のシステムを壊すあいつらは『鬼畜米英』だ」という風に映ったということであって、そもそも富国強兵を謳って人口増やしながらシステムなんざ確立すらされていない分際でよくホザいたなという問題です。150年くらい前の明治の開国期に英語を国語にしろと言っていたのは二葉亭四迷ですけど、戦争なんか無い方がいいに決まってるんで、戦争という現象に有無を言わさず"Non,"を突き付けるのではなくて何故戦争が起こるのかというところから考えていくらでももっと賢いやり方があったはずなんですね。
特に理科系で多いんですけど、特に勉強する気もやりたい価値ある研究も無いのに自分に経歴としての箔を付けるために大学院へ行く人間が居て、そういったのは研究を指導する側の人間にとっては迷惑なんですね。研究内容にもよりますけど、少なくとも2012年現在で日本でそこへ行って価値があるような大学院というのは、私立大学のごく一部や国立旧帝一期校とかそういった最上層の大学のそのまたごく一部だけです。67年前に戦後日本が始まってから、延々と教育レベルは落ち続けているんで、クズみたいな内容の論文を書いたって何の役にも立たずまたどうしようもないんですね。理系とてそれは同じです。クズみたいな研究を大学院へ行ってやってクズみたいな論文を書いたところで、それがその研究者の間で役に立つでも何でもなく、しかもそれを書いた当人は研究者にな(れ)るわけでもなく、研究とは何の関係もない内容の仕事に就くだけであるのがオチというケースがほとんどです。単に経験として身に付けるにおいては大学院で受けられる教育というのは費用対効果や時間対効果が低過ぎるんですね。私の場合だと高校生であった時分に「今の時代、大学院なんかへ行けば行くほど就職は無くなるだけだぞ」忠告してくれた先生が居ましたけど、つまりは東大や東工大以外の中途半端な大学の大学院なんか行ったところで研究者になれるわけでもなく何の得にもならないぞ、ということなんですね。もし勉強したいだけならば、勉強なんて教授とコミュニケーションを取れる場があってあとは図書館が使えればいいんで、ワザと留年して籍だけ置いて図書館へ通って幅広い勉強をするというのもありです。何か最近はいろんな大学に教養学部の類が出来たみたいで(?)、実によろしいことだと私個人は勝手に思ってます。勉強は行うに越したことはないですけど、別に研究者になるでもないのに特定の学問を究極的に修めたところで何の役にも立たないからです。だから勉強するなら勉強するでその中身としてはそれぞれの人間がそれぞれにとって役立つと思われることを学んだ方がいいです、それが金銭的利得には直接結びつかないように一見したところでは思われる教養という胡散臭い言葉で表されるものとかであっても。
This is what becomes (itself) again.
2012.06.04 Monday
罪と痛み。
野菜とかでありますけど、それが何故か都市部で今も残存しているところの農耕地で生産されたものであるにもかかわらず「市内産野菜である」ということを売りのうたい文句にして売っているバカなものがありますけど、空気や土壌の汚れた都市部で作られた野菜なんか良いものであるはずがないんですね。私が住んでいるのは首都圏ですけど、スーパーに並んでいるものでも、こういった地場産であることを売りにしているものはもう実際見た目でよく育っていないという悪いものが多いです。先の記事で書いた「個人主義と産業における分業との悪質な履き違えやおそらくは意図的な混同」というものはこういったところでも表れてきます、精神科医とは逆パターンで。精神科医は産業における分業に個人主義性を絡ませませて逃げますけど、こういった土着な人たちは物理的側面において蓋然的たる個人主義性を何とか無理矢理成立させるために産業における分業を利用して目の前の現実を見ていないと言わざるを得ない阿呆というよりはこれはこれで馬鹿なことをやります。
最近水道の水の味がもの凄く悪いんですけど、殺菌消毒がきちんとなされていないというか、何時からこの日本という国はロシアみたくライフラインの管理が悪くなったんですかね?非常に異様な味がするんですけど、水道の水を安心して飲めないとか個々の経済主体の能力が最大限に発揮されることに水を差している何処の異常馬鹿国家だという問題です。
何か物事を説明している人間に対して「言い訳をするな」とホザく人間が居ますけど、物事の説明を「言い訳」と解釈する発想がそもそもナンセンスです。目の前の現実が見えないとか逃避だとかいうよりは、物事の何がどうなっているかを鑑みる能力が無い人間がこういった発言をしてしまうというのがたいていの場合のオチです。つまり彼ら彼女らにとっては物事の説明というのは文字通り「言い訳」だということであって、しかし神になった人や神サマたりうる人はどこにも居ませんよということで事象の認識能力が無いヒトは脳に障害を負っている人以外には居ないということです。しかしやはり人間誰しも他者を100%完全に信頼するというのは無理なんで、こういった人たちの恐怖心を否定することはできないです。解決策としてはヒトにまつわる唯一の手段である言葉を使ってコミュニケーションを取るということしかないです。あとは人間好きな健常な人たちにおける結婚とか。
オタクが読解力が無いとか言っている人間が居るらしいんですけど、オタクというのは読解力が有り過ぎる人たちのことです。トンチや騙し目的で釣っておいて、騙された人間に対して「読解力が無い」だとか調子に乗るなくたばれクズがというお話です。先の記事で説明したように、オタクというのは現実しか見えないまたは読解力があり過ぎるためにアニメやゲームにハマっている自分にハマっってしまっている人たちのことであって、現象的にはアニメばかり見ていたりゲームばかりをやっていたりするのでオタクではない健常な人たちからすると一つの構成された世界としての「アニメの世界」や「ゲームの世界」にのめり込んでしまっているもしくはそれによって表現されている世界が真実だと思い込んでしまっているものであると見做さざるを得ないということです。オタクの人たちというのは心身ともに病んで老成しているとも形容が可能です。
だからあの哲学者にしては現実問題が見え過ぎている中島義道さんという人はオタクのさきがけです。血が汚れているというとちょっと失礼ですけど、あまりに現実的な問題の解決に関心がイき過ぎて、空気から情報をgelesenする類の人間です、おそらく。ご自身も著書の中で書いてますけど、世界の真理を解き明かすためでなく自分が救われる為に哲学をやっている人間が僅かながら居る、と。
チェーホフの小説に、「異常な騒音に対する苦情を申し立てたらばその現場で騒音を立てていたのが高級娼婦と戯れていた勤め先の上司であった、(そして退職を勧告された)」という理不尽極まりないストーリーによって教訓を説いている短編小説がありますけど、釣りという最悪な行いに及ぶ連中が居ます。
この世界に確実な(妄)(想)念など何も無いということをしっかりと実感として知っておくことが生きていく上で重要だったりします。つまり他人がどういった意図でその行動や言動をとっているかということは絶対的に理解できないものであり、対人関係におけるコミュニケーション以外の場において他者に対して何も言う筋合いは無いということです。私はIとyouで為される対人関係においてyouを全て敵であると見做す不快感には若い頃ずっと耐えられませんでした。一言で言うとウザ過ぎて不快感で気が狂いそうだったからです。嫌悪感を抱いたならばその他者とはコミュニケーションを取らなければよいんで、つまりは他人に対していたずらに「好きだ」という感情や心情を表明することですらが(ことこそが)、性悪説の表れであり現しだということで万物の元凶っぽいです。つまりそんなに好きな相手だったらば結婚しろよという問題であって、それ以外で他者に対して安易に好きだとか嫌いだとかいう感情を表明するなよ、ということです。騒音の問題についても同じであって、自分が他人にどれだけ迷惑を掛けているかということは決して断定できるものではないです。知らない世界は結構おぞましいものだったりします。だから肉体に溜まったストレスの解消方法を上手く探り当ててそれに拠って上手く生きていかないとどうしようもないです。ちなみにゲームなんてものはストレス解消にならないどころかストレス解消に見せかけたストレス捏造兼ストレス怨憎でしかないです。
人間どういった状況の時に他者を求めるのか、ということに人間関係における問題の本質があったりします。「本当の孤独」とかいうとちょっと胡散臭くなりますけど、「ああこれが孤独か」、という感触です。それをひょっとしたら「恋」とかいうのかもしれませんけど、私にはちょっとよく理解しかねます。
たしか太宰治が、「罪」の対義語が見つからない、「罪」の対義語は罰ではない、と書いていましたけど、「罪」の対義語は「痛み」です。歪んだ魂が正されていくところの痛み。ストレスが解消されれば人間は正常になるんで、大昔おそらく特に女性がやられてましたけど、五体満足でない状態にするというこれはこれで最悪なことを行う必要なんか無いんですね。ヒトは誰しも汚れを背負って肉体が老化して死んでいくんで、そういう汚れを背負ってくれている人間に暴力を振るえば明らかにそれは間違っているということです。だから女性に暴力を振るってはいけないということであって、老人を大切にしようということは当然の社会的合意に基づくものです。つまり当然の如くナチスみたいな犯罪者集団の行ったことは最悪だということであって、女性はそもそも生まれながらにして汚れを背負ってくれているところの「罪深い存在」という形容は適切ではなく感謝すべき「あり難い存在」だということです。
野菜とかでありますけど、それが何故か都市部で今も残存しているところの農耕地で生産されたものであるにもかかわらず「市内産野菜である」ということを売りのうたい文句にして売っているバカなものがありますけど、空気や土壌の汚れた都市部で作られた野菜なんか良いものであるはずがないんですね。私が住んでいるのは首都圏ですけど、スーパーに並んでいるものでも、こういった地場産であることを売りにしているものはもう実際見た目でよく育っていないという悪いものが多いです。先の記事で書いた「個人主義と産業における分業との悪質な履き違えやおそらくは意図的な混同」というものはこういったところでも表れてきます、精神科医とは逆パターンで。精神科医は産業における分業に個人主義性を絡ませませて逃げますけど、こういった土着な人たちは物理的側面において蓋然的たる個人主義性を何とか無理矢理成立させるために産業における分業を利用して目の前の現実を見ていないと言わざるを得ない阿呆というよりはこれはこれで馬鹿なことをやります。
最近水道の水の味がもの凄く悪いんですけど、殺菌消毒がきちんとなされていないというか、何時からこの日本という国はロシアみたくライフラインの管理が悪くなったんですかね?非常に異様な味がするんですけど、水道の水を安心して飲めないとか個々の経済主体の能力が最大限に発揮されることに水を差している何処の異常馬鹿国家だという問題です。
何か物事を説明している人間に対して「言い訳をするな」とホザく人間が居ますけど、物事の説明を「言い訳」と解釈する発想がそもそもナンセンスです。目の前の現実が見えないとか逃避だとかいうよりは、物事の何がどうなっているかを鑑みる能力が無い人間がこういった発言をしてしまうというのがたいていの場合のオチです。つまり彼ら彼女らにとっては物事の説明というのは文字通り「言い訳」だということであって、しかし神になった人や神サマたりうる人はどこにも居ませんよということで事象の認識能力が無いヒトは脳に障害を負っている人以外には居ないということです。しかしやはり人間誰しも他者を100%完全に信頼するというのは無理なんで、こういった人たちの恐怖心を否定することはできないです。解決策としてはヒトにまつわる唯一の手段である言葉を使ってコミュニケーションを取るということしかないです。あとは人間好きな健常な人たちにおける結婚とか。
オタクが読解力が無いとか言っている人間が居るらしいんですけど、オタクというのは読解力が有り過ぎる人たちのことです。トンチや騙し目的で釣っておいて、騙された人間に対して「読解力が無い」だとか調子に乗るなくたばれクズがというお話です。先の記事で説明したように、オタクというのは現実しか見えないまたは読解力があり過ぎるためにアニメやゲームにハマっている自分にハマっってしまっている人たちのことであって、現象的にはアニメばかり見ていたりゲームばかりをやっていたりするのでオタクではない健常な人たちからすると一つの構成された世界としての「アニメの世界」や「ゲームの世界」にのめり込んでしまっているもしくはそれによって表現されている世界が真実だと思い込んでしまっているものであると見做さざるを得ないということです。オタクの人たちというのは心身ともに病んで老成しているとも形容が可能です。
だからあの哲学者にしては現実問題が見え過ぎている中島義道さんという人はオタクのさきがけです。血が汚れているというとちょっと失礼ですけど、あまりに現実的な問題の解決に関心がイき過ぎて、空気から情報をgelesenする類の人間です、おそらく。ご自身も著書の中で書いてますけど、世界の真理を解き明かすためでなく自分が救われる為に哲学をやっている人間が僅かながら居る、と。
チェーホフの小説に、「異常な騒音に対する苦情を申し立てたらばその現場で騒音を立てていたのが高級娼婦と戯れていた勤め先の上司であった、(そして退職を勧告された)」という理不尽極まりないストーリーによって教訓を説いている短編小説がありますけど、釣りという最悪な行いに及ぶ連中が居ます。
この世界に確実な(妄)(想)念など何も無いということをしっかりと実感として知っておくことが生きていく上で重要だったりします。つまり他人がどういった意図でその行動や言動をとっているかということは絶対的に理解できないものであり、対人関係におけるコミュニケーション以外の場において他者に対して何も言う筋合いは無いということです。私はIとyouで為される対人関係においてyouを全て敵であると見做す不快感には若い頃ずっと耐えられませんでした。一言で言うとウザ過ぎて不快感で気が狂いそうだったからです。嫌悪感を抱いたならばその他者とはコミュニケーションを取らなければよいんで、つまりは他人に対していたずらに「好きだ」という感情や心情を表明することですらが(ことこそが)、性悪説の表れであり現しだということで万物の元凶っぽいです。つまりそんなに好きな相手だったらば結婚しろよという問題であって、それ以外で他者に対して安易に好きだとか嫌いだとかいう感情を表明するなよ、ということです。騒音の問題についても同じであって、自分が他人にどれだけ迷惑を掛けているかということは決して断定できるものではないです。知らない世界は結構おぞましいものだったりします。だから肉体に溜まったストレスの解消方法を上手く探り当ててそれに拠って上手く生きていかないとどうしようもないです。ちなみにゲームなんてものはストレス解消にならないどころかストレス解消に見せかけたストレス捏造兼ストレス怨憎でしかないです。
人間どういった状況の時に他者を求めるのか、ということに人間関係における問題の本質があったりします。「本当の孤独」とかいうとちょっと胡散臭くなりますけど、「ああこれが孤独か」、という感触です。それをひょっとしたら「恋」とかいうのかもしれませんけど、私にはちょっとよく理解しかねます。
たしか太宰治が、「罪」の対義語が見つからない、「罪」の対義語は罰ではない、と書いていましたけど、「罪」の対義語は「痛み」です。歪んだ魂が正されていくところの痛み。ストレスが解消されれば人間は正常になるんで、大昔おそらく特に女性がやられてましたけど、五体満足でない状態にするというこれはこれで最悪なことを行う必要なんか無いんですね。ヒトは誰しも汚れを背負って肉体が老化して死んでいくんで、そういう汚れを背負ってくれている人間に暴力を振るえば明らかにそれは間違っているということです。だから女性に暴力を振るってはいけないということであって、老人を大切にしようということは当然の社会的合意に基づくものです。つまり当然の如くナチスみたいな犯罪者集団の行ったことは最悪だということであって、女性はそもそも生まれながらにして汚れを背負ってくれているところの「罪深い存在」という形容は適切ではなく感謝すべき「あり難い存在」だということです。
Wodan
2012.06.10 Sunday
変態の皮を被った紳士。
オジン。
大抵どの学問にも学史というものがありますけど現代では利用価値があまり無いと見做されあまり人気が無かったりします、が、けっこう学ぶところが多かったりします。文学研究というのは、その文人がどのような生活を行ってどのような著作を残したかということが全般に渡った総括的な記録として残っているという点において価値があります。つまりその人物が何の出来事があったどういった時代に生きどういった生活を送りどういった対人関係を営みそれらに関してもしくは関せずにどういったものを残していったのかということを現代に生きる人間が知りうるということでおそらく文学というのは学ぶ価値があります。こういった人間に関することがそれこそ謂わば工学化されて記録として残っていることに価値があるのは、それが歴史上の人物に関することであり既に亡くなっている人間のそれだからであって、今生きている人間の為になり役立つからです。たまに生きている人間に関すること(関係)を工学化しようとする馬鹿が居ますけど、これはそもそもその試み自体が今生きている人間にとって百害あって一利無しどころか失敗するように出来てます。
散文と詩は読んで字の如く全く違います。散文詩というのもありますけど、これは詩(Poesie)と形容するのは適切でないです。
少なくとも2012年時点における日本という国においては物事を為すにおいて詩的解釈が通用するはずがないです。残念ながら他人に因縁を付けてくるような奴が何とでも理由を取りつくろうために事象の詩的解釈を利用しているに過ぎないと言ってしまっても過言ではないです。
日本のマスコミは「こういう人はこうである」「こういう人はこういうことをやる・やらない」等マンガ的なキャラ設定を主とした人単位で物事鑑みるといことを社会通念として一般市民に植え付けようと試み、そしてそうやって釣った真面目な人間がストレスにまみれて悪事を起こすのを待ちそして悪事を起こさせて「…どうしてこんな真面目な人が…」とシラを切りクサいセリフをホザいてネタとして扱うということを少なくとも戦後ひたすら行ってました。私が個人的に知る限りでは、一部の(老齢の)精神科医もこれに同じです。こういった連中は謂わば散文詩的なことを行っていたということであって、その漠然とした妄念でしかないものをそれが流転しうるものでありながら社会に定着させようとしたところで失敗するに決まってます。
私はこのブログの記事内で偉そうなことを書いてますけど、あまり勉強のできる方ではないです。試験の点数が取れるかどうかということと、勉強ができるかどうかということは、もちろん大きく正の相関を示しますけど、基本的には別問題です。だから子供の頃から所謂「勉強ができる」人間であっても義務教育が終わるあたりで実は頭が悪いことが露呈して試験の点数が取れずに下へ落ちていくということも現実問題としては多々あります。が、そんなことはそれこそ別問題としてもちろん勉強(強きに勉める)は行うに越したことはないです。
男の場合で多いですけど、何故いわゆるイジめられっ子が「何もやらない」ことを非難され女のイジめではないところの一発カマされるということを連発されるのか、ということに問題の本質があったりします。ストレスというものは肉体に溜るものであって、生きていく限りにおいてそれはスポーツ等何らかの手段で解決しなければならないものだが、いわゆるイジめられっ子というのはストレスというのは存在しない精神とやらに存し溜まるものであるとアカい発想を抱いているものであり、そこでその発想から謂わば必然的に逃げへと走り(精神的ストレスという発想がそもそもの逃げ)、肉体のストレスは当然解消されずに同時に存在しない精神を設定したところのそこに妄念を抱えただ肉体は悪くなりそして設定された精神も悪化の一途をたどる、ということです。よってイジめっ子なるものはイジめられっ子に対して何かストレスを解消させようと発破をかけるが、これはストレスを在りもしない精神的なものと解しているイジめられっ子にとって逆効果でしかないということです。何故所謂イジめっ子がイジめをやらかすのか、イジめられっ子には全く理解できず、只負に落として(腑に落として)ゆくだけという最悪のパターンにオチてしまうことが多々あります。人間の胃の構造は食道を抜けたところでやや左方向へと傾く形になってますけど、「左」へベクトルが憑いているとその方向を勝手に意志してしまっているということです。食後の運動がタブーであるのと同じく、「左」方向へ運動衡がついている人間に発破をかけても逆効果でしかないということです。
関係無いですけど、私は嫌いな人間は物理的に避けますし、その人間が私のことを嫌っているであろうと予測のつく人間のことも物理的に避けますけど、避けられた人間からすれば私がその人間を嫌っているから避けたのか私がその人間にただ不快な思いをさせまいとして避けたのか判別がつかないであろうということも予測がつくのであって、つまり私がその当該人物に対して負の関係が構築されるであろうと負の思惟を抱いた人間に対しては即負のものとして処理して関係を築きません。
好々爺という言葉も日本語にはありますし、ジジイキャラというか壮年や老年の男性を変態ジジイと形容するものがありますけど、ブサイクな女こそがたとえ若くとも皆ジジ臭く嫌らしいです。出歯亀とか。先の記事でも書きましたけど、不細工というのは気持ち悪い思いを当人たちもしているところの不細工であって見た目が不細工な女性というのは中身まで不細工です。
人の醸し出す雰囲気というのは自他両方向に向って罠です。女の人が化粧や眼の整形等で意図的にこれを行いますけど、観察眼のある男性は化粧で作られた色のついた女性の雰囲気なんか一発で嘘であると見破ります。男で「雰囲気イケメン」なんてものは論外というか出鱈目です。少なくともその人の「顔」を知りたいというのならば、よく顔面の構成を見ることです。外で見知らぬ人の顔をジロジロ見るのはやめた方がいいですけど。
真のニヒリストなるものを設定してそれが仮に実在するとすると、その人間は何も記憶することができません。よって、そこに肉体の痛みを重ね合わせダブらせて物事を記憶していくというイタいことを行わざるを得ません。「腑に落とす」とはおそらくそういうことでもあります。ちなみに私は外敵である他者の情報を取り入れるのに取りあえず憎しみの感情を意図的に発露させなければ人間に関する情報を記憶できないので、あまり健全な対人関係を築く能力は持っていません。
ニーチェのニヒリズムはイデオロギー的・人的資本的であって、「真の」ニヒリズムとは言いづらいです。そりゃナチスにも利用されるわけです。一つ前の記事で書いたような、人間がデカルトの如く絶対確実なものは何も無いことを悟り絶対の孤独を知った時に、異性愛に走るかそれとも自分は本来的に虚無であるべきであると志向し真のニヒリズムやもしくは教会が当人の死後に取り作ったナザレのイエスさんの偶像を絶対的に崇拝し信じるキリスト教的愛に走るかで、だいたい人間大きく二つに分かれます。本物の恋と形容されうるものがあるのかどうか私にはちょっと分からないですけど、安易な異性愛に走るのはJudenです。真のニヒリズムに走る(走りたがる)のはヒットラーみたいな危険者であって、フロイト先生的な解釈をするのならばこういった人物の行いもまた前者と同じくリビドーの昇華物であるということです。やはり教会が後世にとりあえずiconとして設定したナザレのイエスさんのみが絶対のものであるとしておくのが賢そうです、自分の肉体を認識するところのcogito以外で。
「思う」ということは、真実な観点からすると、既にそれを行っているということです。行っていることが、象徴的に、「思う」という形で脳裏に浮かぶということっぽいです。私はちょっとよく知りませんけど、フロイトの夢分析というのはおそらくはこういったことについて論じているものなのではないかと。それこそ象徴的な物言いをするのならば、「その時点で恐れていることは既に行われていることである」、とか。フロイトの定義する神経症というのはまさにこれです、おそらく。もしくは、黄色い尿を排泄してビールを飲んでいては意味が無い、とか。黄色い尿が排泄されることによる効果が相殺されて肥満してしまいます。悪いものは肉体から出ていくように出来てます。
オジン。
大抵どの学問にも学史というものがありますけど現代では利用価値があまり無いと見做されあまり人気が無かったりします、が、けっこう学ぶところが多かったりします。文学研究というのは、その文人がどのような生活を行ってどのような著作を残したかということが全般に渡った総括的な記録として残っているという点において価値があります。つまりその人物が何の出来事があったどういった時代に生きどういった生活を送りどういった対人関係を営みそれらに関してもしくは関せずにどういったものを残していったのかということを現代に生きる人間が知りうるということでおそらく文学というのは学ぶ価値があります。こういった人間に関することがそれこそ謂わば工学化されて記録として残っていることに価値があるのは、それが歴史上の人物に関することであり既に亡くなっている人間のそれだからであって、今生きている人間の為になり役立つからです。たまに生きている人間に関すること(関係)を工学化しようとする馬鹿が居ますけど、これはそもそもその試み自体が今生きている人間にとって百害あって一利無しどころか失敗するように出来てます。
散文と詩は読んで字の如く全く違います。散文詩というのもありますけど、これは詩(Poesie)と形容するのは適切でないです。
少なくとも2012年時点における日本という国においては物事を為すにおいて詩的解釈が通用するはずがないです。残念ながら他人に因縁を付けてくるような奴が何とでも理由を取りつくろうために事象の詩的解釈を利用しているに過ぎないと言ってしまっても過言ではないです。
日本のマスコミは「こういう人はこうである」「こういう人はこういうことをやる・やらない」等マンガ的なキャラ設定を主とした人単位で物事鑑みるといことを社会通念として一般市民に植え付けようと試み、そしてそうやって釣った真面目な人間がストレスにまみれて悪事を起こすのを待ちそして悪事を起こさせて「…どうしてこんな真面目な人が…」とシラを切りクサいセリフをホザいてネタとして扱うということを少なくとも戦後ひたすら行ってました。私が個人的に知る限りでは、一部の(老齢の)精神科医もこれに同じです。こういった連中は謂わば散文詩的なことを行っていたということであって、その漠然とした妄念でしかないものをそれが流転しうるものでありながら社会に定着させようとしたところで失敗するに決まってます。
私はこのブログの記事内で偉そうなことを書いてますけど、あまり勉強のできる方ではないです。試験の点数が取れるかどうかということと、勉強ができるかどうかということは、もちろん大きく正の相関を示しますけど、基本的には別問題です。だから子供の頃から所謂「勉強ができる」人間であっても義務教育が終わるあたりで実は頭が悪いことが露呈して試験の点数が取れずに下へ落ちていくということも現実問題としては多々あります。が、そんなことはそれこそ別問題としてもちろん勉強(強きに勉める)は行うに越したことはないです。
男の場合で多いですけど、何故いわゆるイジめられっ子が「何もやらない」ことを非難され女のイジめではないところの一発カマされるということを連発されるのか、ということに問題の本質があったりします。ストレスというものは肉体に溜るものであって、生きていく限りにおいてそれはスポーツ等何らかの手段で解決しなければならないものだが、いわゆるイジめられっ子というのはストレスというのは存在しない精神とやらに存し溜まるものであるとアカい発想を抱いているものであり、そこでその発想から謂わば必然的に逃げへと走り(精神的ストレスという発想がそもそもの逃げ)、肉体のストレスは当然解消されずに同時に存在しない精神を設定したところのそこに妄念を抱えただ肉体は悪くなりそして設定された精神も悪化の一途をたどる、ということです。よってイジめっ子なるものはイジめられっ子に対して何かストレスを解消させようと発破をかけるが、これはストレスを在りもしない精神的なものと解しているイジめられっ子にとって逆効果でしかないということです。何故所謂イジめっ子がイジめをやらかすのか、イジめられっ子には全く理解できず、只負に落として(腑に落として)ゆくだけという最悪のパターンにオチてしまうことが多々あります。人間の胃の構造は食道を抜けたところでやや左方向へと傾く形になってますけど、「左」へベクトルが憑いているとその方向を勝手に意志してしまっているということです。食後の運動がタブーであるのと同じく、「左」方向へ運動衡がついている人間に発破をかけても逆効果でしかないということです。
関係無いですけど、私は嫌いな人間は物理的に避けますし、その人間が私のことを嫌っているであろうと予測のつく人間のことも物理的に避けますけど、避けられた人間からすれば私がその人間を嫌っているから避けたのか私がその人間にただ不快な思いをさせまいとして避けたのか判別がつかないであろうということも予測がつくのであって、つまり私がその当該人物に対して負の関係が構築されるであろうと負の思惟を抱いた人間に対しては即負のものとして処理して関係を築きません。
好々爺という言葉も日本語にはありますし、ジジイキャラというか壮年や老年の男性を変態ジジイと形容するものがありますけど、ブサイクな女こそがたとえ若くとも皆ジジ臭く嫌らしいです。出歯亀とか。先の記事でも書きましたけど、不細工というのは気持ち悪い思いを当人たちもしているところの不細工であって見た目が不細工な女性というのは中身まで不細工です。
人の醸し出す雰囲気というのは自他両方向に向って罠です。女の人が化粧や眼の整形等で意図的にこれを行いますけど、観察眼のある男性は化粧で作られた色のついた女性の雰囲気なんか一発で嘘であると見破ります。男で「雰囲気イケメン」なんてものは論外というか出鱈目です。少なくともその人の「顔」を知りたいというのならば、よく顔面の構成を見ることです。外で見知らぬ人の顔をジロジロ見るのはやめた方がいいですけど。
真のニヒリストなるものを設定してそれが仮に実在するとすると、その人間は何も記憶することができません。よって、そこに肉体の痛みを重ね合わせダブらせて物事を記憶していくというイタいことを行わざるを得ません。「腑に落とす」とはおそらくそういうことでもあります。ちなみに私は外敵である他者の情報を取り入れるのに取りあえず憎しみの感情を意図的に発露させなければ人間に関する情報を記憶できないので、あまり健全な対人関係を築く能力は持っていません。
ニーチェのニヒリズムはイデオロギー的・人的資本的であって、「真の」ニヒリズムとは言いづらいです。そりゃナチスにも利用されるわけです。一つ前の記事で書いたような、人間がデカルトの如く絶対確実なものは何も無いことを悟り絶対の孤独を知った時に、異性愛に走るかそれとも自分は本来的に虚無であるべきであると志向し真のニヒリズムやもしくは教会が当人の死後に取り作ったナザレのイエスさんの偶像を絶対的に崇拝し信じるキリスト教的愛に走るかで、だいたい人間大きく二つに分かれます。本物の恋と形容されうるものがあるのかどうか私にはちょっと分からないですけど、安易な異性愛に走るのはJudenです。真のニヒリズムに走る(走りたがる)のはヒットラーみたいな危険者であって、フロイト先生的な解釈をするのならばこういった人物の行いもまた前者と同じくリビドーの昇華物であるということです。やはり教会が後世にとりあえずiconとして設定したナザレのイエスさんのみが絶対のものであるとしておくのが賢そうです、自分の肉体を認識するところのcogito以外で。
「思う」ということは、真実な観点からすると、既にそれを行っているということです。行っていることが、象徴的に、「思う」という形で脳裏に浮かぶということっぽいです。私はちょっとよく知りませんけど、フロイトの夢分析というのはおそらくはこういったことについて論じているものなのではないかと。それこそ象徴的な物言いをするのならば、「その時点で恐れていることは既に行われていることである」、とか。フロイトの定義する神経症というのはまさにこれです、おそらく。もしくは、黄色い尿を排泄してビールを飲んでいては意味が無い、とか。黄色い尿が排泄されることによる効果が相殺されて肥満してしまいます。悪いものは肉体から出ていくように出来てます。
the apple of my eyes
2012.06.17 Sunday
エメラルドグリーンのあの娘。
人魚姫。
私は思春期の頃から十数年間マスターベーションが止まらなかったんですけど、ここ数ヶ月間ストレスが大幅に解消されて、近日はマスターベーションをすることは無くなりました。ストレス溜まるんだったらエロ画像見てマスターベーションしときゃいいとか書きましたけど、別にストレスがあるでもなく不用意に射精しないと体調も良いです。今になって冷静に考えるとあんなエロ画像とかで自慰行為する人本当に居るんですかね?くらいの。「腎」という文字には精力だとか精液だとかいった意味があります。多分射精をし過ぎると腎臓にくるんですね。ヤバいです。おそらく肥満の原因にもなります。漢方の病名用語で過度の性行為により精液たる腎水が枯渇する症状を腎虚と言います。
どうやら私は幼児の頃から二十数年間ずっとストレスが溜まっていた状態であったということのようです。三十過ぎた年になってやっとストレスが溜まっていない状態とはどういうものか、ストレスを解消するということはどういうことなのかということを知りました。ストレスが溜まっている状態があまりにも当たり前過ぎてストレスを解消するという発想自体が無かったのだということを知りました。ちょっとズレますけど「本気」ということがどういったことなのかもそもそも発想からして31歳までの私には分かりませんでした。
パスカルがパンセで「あなた方の蒙を開くこと(ができるできないどうたらこうたら)」とか書いてましたけど、黄色人種の幼児には臀部上部に蒙古斑が見られることがあります。その部分に、成人してからでも毛巣洞(もうそうどう)という空洞ができてその中で毛や古くなった皮膚などの垢や汗なんかが溜まって化膿して炎症を起こすという病気があります。私は10代の半ば頃にこれができて、それが20代の前半で二回膿んだことがあって高熱を発して痛みで歩けなくなって椅子に座ることもできなくなって、病院へ行って金属のドリルのようなもので仙骨あたりから背骨に穴を開けているのではというくらいに痛々しく穴を開けて赤黒い膿を出してもらったことがあります。ちょっと本当にこんな病気があるか不明ですけど、私がかかった精神科医のN田四Rはそう言ってました。「堪忍袋の尾が切れる」というのはおそらくこれではないかと。
私はイタリア人並みにムダ毛が濃く生えるんですけど、体毛全部剃ってます。脱毛するのは馬鹿というか間違えているのであって、生やしてこまめに剃るのがいいです。黒髪の生える日本人においては毛は穢れたものとおそらく考えられてましたけど、黒いものは黒いものであって、何らかの色素が集約されて黒く見えると化学的に考えるのではなくて、即時的即物的にその時何がどうなっているかという風に考えると正解っぽい、というかおそらく正解です。「その時、黒いもの(が出る)」ということであって、薄い色のものが出る時のものは薄い色のものが出ているに過ぎないということです。それに伴って身体感覚やストレスの感じ方や溜まり方がどうなるかという問題です。物は考え様。髪は頭から生えるので女の美しい黒髪はある意味勲章だということです、たぶん。
対人関係の場における意味しか見えないとなるとこれは困ったことになりますけど、幸せすぎてcommnicationizedが完了した頭のイっちゃている人以外は、空気を読むのが上手い人間は言語使用において意味を即座に読み取ってしまうところのものであるということで申し分無いということです。例えば、フランス語だとgrand hommeが日本語の「偉人」の意でありhomme grandが日本語の「大男」の意ということみたいなんですけど、これは文法的に字面通り意味を取るgrand hommeの場合とhomme grandの「野郎?ああ、あのでけぇ?」という語味のニュアンスを読み取っての場合と区別出来ないと全く理解できないです。会話の上手い人たちは後者の意味を理解することが容易であるひいては前者と後者の区別が簡単に付きますけど、空気を読むのが下手な人間は前者の字面通りの意味しか分かりません。体がでっかい人は偉い人だ、みたいなことが言えるかどうかについては私にはちょっと断言できないですけど。
ちなみに、commnicationizedが完了されるところのものは、言語使用においてではなくて、カップルなり夫婦なりでセックスして仲良くすれば無問題ということです。愛しているのならば行為で示せ、という。
アカい男というのは悪事を働いておきながら自分に都合の悪い事態が訪れると工学化された人間関係に逃げ込みます。それが相対する人間において自分を上とするか下とするかに拘らずです。例えば、自分が悪事や間違ったことを行ってそれを指摘され注意されると、「あ、あ、あなたはそうやっていちいち間違いを指摘して注意してもらえばいいんで」と発言し普段は見せないへりくだりを見せそして同時に場の問題を人間関係にすり替えて「攻撃者であるあなたが自分より上であると自分は認識していますよ、だから悪事を行う自分を攻撃しないでくれ」という非常にナメ腐った逃げに走る、とかいう場合があったりします。解決されると自分にとっては都合が悪いので問題解決の議題から必死に話を逸らし、そして相手を持ち上げるかもしくは弱みを握ったならばそこを攻撃するという形で人間関係という虚構に逃げ込みます。万死に値するというよりは、何故こういった馬鹿が死なないのか私には全く理解不能です。連中は人単位つまりcommnicationizedされた妄念によって物事を鑑みることがベースになっているということであって、健常な通常人とは逆です。これは恥の文化に生きる人間の発想です。まあ私もそうですけど不運な目に合って寂しさを紛らわせずにはいられないという人たちは居ますけど、そうというよりは、こういった連中は性欲を満たすことが生存の第一義となっている野蛮な生き物であるということです。実際に接してみるとこういう男は同性からしても吐き気がする程ウザいです。上記の健常な場合とは逆であるところの、行為のために愛している(フリをする)、という一番女にモテない馬鹿な男のウザ過ぎて見る者をシラけさせる道化行為です。つまり異性と連れ立って仲良くもしくは助け合い生きていくというのではなくて、性欲を満たす為にあの手この手を尽くし異性と場合によっては仲良さげなフリすらするというブチ殺されるんじゃねえのかコイツという振る舞いです。そりゃ女の人がその生物学的特質からしてこういった男を嫌い避けるのは理に適ってます。そしてこういったのが子供ができて人の親になると平気で子供を虐待するようなマネをするんですね。そもそも性欲を満たすことがこういったのの行動原理であり行動の第一義であるからしてそれもまあ当然と言えば当然です。そしてこういった子供を虐待するような人間の血を引いたその子々孫々は当然まともな人間には育たず滅びに向うというわけであって、必然として適者生存が読んで字の如くそこに体現(体言)されているというわけです。私は自分の両親が恥意識の塊でありまた人様に対しての当人が居ないところでのひたすらな罵倒の文句や見なければ済むことであるにもかかわらずテレビを見て画面に向ってギャーギャー文句を垂れ流すという他者に対して恥意識をなすりつけ振りまくということを行う極めて愚劣な人間でした。
で、こういったアカがコミュニケーション能力において発達しているかというとほとんどの場合その真逆です。先の記事で書いた、コミュニケーション能力が低いのにもかかわらず何故か人気者になりたがってコミュニケーションにおいて無理をして失敗するウザ男君というのがコレです。私は男女のカップルを見て不愉快になることはないですけど、女にやたらと男がカラみついているのを見ると不快になります。私はあのエロゲーとかギャルゲーは当然手が出ませんでしたしノベルゲーとかですらそれこそ恥ずかしくてやってられないんですけど、ああいうのは何故か平気でやりますね、恥の文化に生きる連中は。
ニーチェは、自分の見下しうる者をカテゴライズし、そしてまたツァラトゥストラを設定してみたり「強さの厭世主義なるものがあるのか?」とたわけたことを問うてみたり、ということを行っている点において非常に悪魔的です。厭世をイデオローグ化している時点でそれは弱さが強さと履き違えてられているだけです。
「 ―前略―だからこそ、草を喰んでいる家畜を見たり、あるいはもっと身近なことにすれば、子供を見たりすると、人間はまるで失われた楽園を回想するかのような切ない気持にとらわれるのだ。だって、子供はまだなんら否認すべき過去を持たず、過去と未来の垣の中に、幸福きわまる盲目のなかで遊びたわむれているからである。しかしこの遊戯にも邪魔がはいってこないわけにはいかない。あまりにも早く子供はその忘却状態から、呼びさまされるのだ。そこで子供は『昔は(es war)』という言葉を理解するようになる。「昔は」というあの合言葉、闘争や苦悩や倦怠やがこの合言葉もろとも人間に押し寄せてきて、人間存在が根本において何であるかを否でも応でも想い出させようというのだ――すなわち人間存在がけっして完了することのない一の半過去形Imperfectumであるということを。ついに死があこがれの忘却をもたらすとしても、それは同時に現在ならびに生存をもまきあげてゆくのである。こうして死は結局、『人間存在は不断の『……であった(Gewesen sein)』にすぎない、それは自己自身を否定し、自己自身をくいつくし、自己自身に矛盾することによって生きる一つの事物であるにすぎない』というあの認識に、太鼓判を押すのである。」
「 不眠といい、反芻といい、歴史的感覚といっても、それには一つの限度がある。すなわち人間であれ、あるいは民族であれ、あるいは文化であれ、およそ生きたものがそこなわれ、最後には没落するにいたる一つの限度があるのだ。」
「 ―前略―地平線は閉ざされており、完全である。そしてこの地平のかなたになお人間や情熱や目的やがあるなどということを、彼に想起せしめうるものは、なに一つないのである。すべて生命あるものは、地平線の内部においてのみ、健康に強壮に多産的になりうるということ、これが普遍的法則なのだ。自分のまわりに地平線を引く能力のない場合、あるいはまたあまりに自分一本槍で他人の身になって見ることができない場合、その生活体は、しなびはてて、あるいは息せききって、すみやかに没落してゆくのである。はれやかさ、くもりのない良心、欣然たる行動、来るべきものへの信頼――これらすべては、個人の場合も民族の場合も、見はるかしうる明るいものを、照破しがたい暗いものと屹然と分かつ一線が存すること、適当なときに想起すると同様、適当なときに忘却するすべを心得ていることによるのである。いつ歴史的に感ずることが必要であり、いつ非歴史的に感ずることが必要であるかを、強力な本能で感得することにかかっているのである。次にかかげる命題こそ、読者にとくと考えてもらいたい命題なのだ、『非歴史的なものと歴史的なものとは、個人、民族、文化の健康にとって、ともにひとしく必要である。』」
これはニーチェの「生に対する歴史の利害について」という著作からの引用です。"es war"という言葉そして言葉が持つ(発する)意味内容としてのes warそして行為におけるes warを使ってImperfectumを場に具現化しようとしたものが対人関係におけるコミュニケーションであり、それの極みがおそらくは異性同士の性愛です。しかし歴史を溜め込み過ぎるとフリーズしてしまうよともニーチェ先生はここで言ってます。恥意識が強すぎると好きな女に近寄ることもできないよということです。
ちょっとこれ以後はニーチェ先生特有のおかしいことが書いてあるんですけど、ここでヒットラーのようにキリスト的メシアを演じ政治政党を引き連れての壇上での演説ではなかった、生前の不遇な扱いをニーチェに与えることで人々がそれを阻止した、そういうことなんですかね?人々は100年くらいして人たらぬインターネットが社会に出るまで待ってたんですかね?不死者の身を背負いその確認と称して神々に遊ばれ攻撃されていたバルドルを殺してあげたロキは実はやさしい、みたいな。超人な光の神様が何も痛みを感じないなら不死身でもいいですけど。
人魚姫。
私は思春期の頃から十数年間マスターベーションが止まらなかったんですけど、ここ数ヶ月間ストレスが大幅に解消されて、近日はマスターベーションをすることは無くなりました。ストレス溜まるんだったらエロ画像見てマスターベーションしときゃいいとか書きましたけど、別にストレスがあるでもなく不用意に射精しないと体調も良いです。今になって冷静に考えるとあんなエロ画像とかで自慰行為する人本当に居るんですかね?くらいの。「腎」という文字には精力だとか精液だとかいった意味があります。多分射精をし過ぎると腎臓にくるんですね。ヤバいです。おそらく肥満の原因にもなります。漢方の病名用語で過度の性行為により精液たる腎水が枯渇する症状を腎虚と言います。
どうやら私は幼児の頃から二十数年間ずっとストレスが溜まっていた状態であったということのようです。三十過ぎた年になってやっとストレスが溜まっていない状態とはどういうものか、ストレスを解消するということはどういうことなのかということを知りました。ストレスが溜まっている状態があまりにも当たり前過ぎてストレスを解消するという発想自体が無かったのだということを知りました。ちょっとズレますけど「本気」ということがどういったことなのかもそもそも発想からして31歳までの私には分かりませんでした。
パスカルがパンセで「あなた方の蒙を開くこと(ができるできないどうたらこうたら)」とか書いてましたけど、黄色人種の幼児には臀部上部に蒙古斑が見られることがあります。その部分に、成人してからでも毛巣洞(もうそうどう)という空洞ができてその中で毛や古くなった皮膚などの垢や汗なんかが溜まって化膿して炎症を起こすという病気があります。私は10代の半ば頃にこれができて、それが20代の前半で二回膿んだことがあって高熱を発して痛みで歩けなくなって椅子に座ることもできなくなって、病院へ行って金属のドリルのようなもので仙骨あたりから背骨に穴を開けているのではというくらいに痛々しく穴を開けて赤黒い膿を出してもらったことがあります。ちょっと本当にこんな病気があるか不明ですけど、私がかかった精神科医のN田四Rはそう言ってました。「堪忍袋の尾が切れる」というのはおそらくこれではないかと。
私はイタリア人並みにムダ毛が濃く生えるんですけど、体毛全部剃ってます。脱毛するのは馬鹿というか間違えているのであって、生やしてこまめに剃るのがいいです。黒髪の生える日本人においては毛は穢れたものとおそらく考えられてましたけど、黒いものは黒いものであって、何らかの色素が集約されて黒く見えると化学的に考えるのではなくて、即時的即物的にその時何がどうなっているかという風に考えると正解っぽい、というかおそらく正解です。「その時、黒いもの(が出る)」ということであって、薄い色のものが出る時のものは薄い色のものが出ているに過ぎないということです。それに伴って身体感覚やストレスの感じ方や溜まり方がどうなるかという問題です。物は考え様。髪は頭から生えるので女の美しい黒髪はある意味勲章だということです、たぶん。
対人関係の場における意味しか見えないとなるとこれは困ったことになりますけど、幸せすぎてcommnicationizedが完了した頭のイっちゃている人以外は、空気を読むのが上手い人間は言語使用において意味を即座に読み取ってしまうところのものであるということで申し分無いということです。例えば、フランス語だとgrand hommeが日本語の「偉人」の意でありhomme grandが日本語の「大男」の意ということみたいなんですけど、これは文法的に字面通り意味を取るgrand hommeの場合とhomme grandの「野郎?ああ、あのでけぇ?」という語味のニュアンスを読み取っての場合と区別出来ないと全く理解できないです。会話の上手い人たちは後者の意味を理解することが容易であるひいては前者と後者の区別が簡単に付きますけど、空気を読むのが下手な人間は前者の字面通りの意味しか分かりません。体がでっかい人は偉い人だ、みたいなことが言えるかどうかについては私にはちょっと断言できないですけど。
ちなみに、commnicationizedが完了されるところのものは、言語使用においてではなくて、カップルなり夫婦なりでセックスして仲良くすれば無問題ということです。愛しているのならば行為で示せ、という。
アカい男というのは悪事を働いておきながら自分に都合の悪い事態が訪れると工学化された人間関係に逃げ込みます。それが相対する人間において自分を上とするか下とするかに拘らずです。例えば、自分が悪事や間違ったことを行ってそれを指摘され注意されると、「あ、あ、あなたはそうやっていちいち間違いを指摘して注意してもらえばいいんで」と発言し普段は見せないへりくだりを見せそして同時に場の問題を人間関係にすり替えて「攻撃者であるあなたが自分より上であると自分は認識していますよ、だから悪事を行う自分を攻撃しないでくれ」という非常にナメ腐った逃げに走る、とかいう場合があったりします。解決されると自分にとっては都合が悪いので問題解決の議題から必死に話を逸らし、そして相手を持ち上げるかもしくは弱みを握ったならばそこを攻撃するという形で人間関係という虚構に逃げ込みます。万死に値するというよりは、何故こういった馬鹿が死なないのか私には全く理解不能です。連中は人単位つまりcommnicationizedされた妄念によって物事を鑑みることがベースになっているということであって、健常な通常人とは逆です。これは恥の文化に生きる人間の発想です。まあ私もそうですけど不運な目に合って寂しさを紛らわせずにはいられないという人たちは居ますけど、そうというよりは、こういった連中は性欲を満たすことが生存の第一義となっている野蛮な生き物であるということです。実際に接してみるとこういう男は同性からしても吐き気がする程ウザいです。上記の健常な場合とは逆であるところの、行為のために愛している(フリをする)、という一番女にモテない馬鹿な男のウザ過ぎて見る者をシラけさせる道化行為です。つまり異性と連れ立って仲良くもしくは助け合い生きていくというのではなくて、性欲を満たす為にあの手この手を尽くし異性と場合によっては仲良さげなフリすらするというブチ殺されるんじゃねえのかコイツという振る舞いです。そりゃ女の人がその生物学的特質からしてこういった男を嫌い避けるのは理に適ってます。そしてこういったのが子供ができて人の親になると平気で子供を虐待するようなマネをするんですね。そもそも性欲を満たすことがこういったのの行動原理であり行動の第一義であるからしてそれもまあ当然と言えば当然です。そしてこういった子供を虐待するような人間の血を引いたその子々孫々は当然まともな人間には育たず滅びに向うというわけであって、必然として適者生存が読んで字の如くそこに体現(体言)されているというわけです。私は自分の両親が恥意識の塊でありまた人様に対しての当人が居ないところでのひたすらな罵倒の文句や見なければ済むことであるにもかかわらずテレビを見て画面に向ってギャーギャー文句を垂れ流すという他者に対して恥意識をなすりつけ振りまくということを行う極めて愚劣な人間でした。
で、こういったアカがコミュニケーション能力において発達しているかというとほとんどの場合その真逆です。先の記事で書いた、コミュニケーション能力が低いのにもかかわらず何故か人気者になりたがってコミュニケーションにおいて無理をして失敗するウザ男君というのがコレです。私は男女のカップルを見て不愉快になることはないですけど、女にやたらと男がカラみついているのを見ると不快になります。私はあのエロゲーとかギャルゲーは当然手が出ませんでしたしノベルゲーとかですらそれこそ恥ずかしくてやってられないんですけど、ああいうのは何故か平気でやりますね、恥の文化に生きる連中は。
ニーチェは、自分の見下しうる者をカテゴライズし、そしてまたツァラトゥストラを設定してみたり「強さの厭世主義なるものがあるのか?」とたわけたことを問うてみたり、ということを行っている点において非常に悪魔的です。厭世をイデオローグ化している時点でそれは弱さが強さと履き違えてられているだけです。
「 ―前略―だからこそ、草を喰んでいる家畜を見たり、あるいはもっと身近なことにすれば、子供を見たりすると、人間はまるで失われた楽園を回想するかのような切ない気持にとらわれるのだ。だって、子供はまだなんら否認すべき過去を持たず、過去と未来の垣の中に、幸福きわまる盲目のなかで遊びたわむれているからである。しかしこの遊戯にも邪魔がはいってこないわけにはいかない。あまりにも早く子供はその忘却状態から、呼びさまされるのだ。そこで子供は『昔は(es war)』という言葉を理解するようになる。「昔は」というあの合言葉、闘争や苦悩や倦怠やがこの合言葉もろとも人間に押し寄せてきて、人間存在が根本において何であるかを否でも応でも想い出させようというのだ――すなわち人間存在がけっして完了することのない一の半過去形Imperfectumであるということを。ついに死があこがれの忘却をもたらすとしても、それは同時に現在ならびに生存をもまきあげてゆくのである。こうして死は結局、『人間存在は不断の『……であった(Gewesen sein)』にすぎない、それは自己自身を否定し、自己自身をくいつくし、自己自身に矛盾することによって生きる一つの事物であるにすぎない』というあの認識に、太鼓判を押すのである。」
「 不眠といい、反芻といい、歴史的感覚といっても、それには一つの限度がある。すなわち人間であれ、あるいは民族であれ、あるいは文化であれ、およそ生きたものがそこなわれ、最後には没落するにいたる一つの限度があるのだ。」
「 ―前略―地平線は閉ざされており、完全である。そしてこの地平のかなたになお人間や情熱や目的やがあるなどということを、彼に想起せしめうるものは、なに一つないのである。すべて生命あるものは、地平線の内部においてのみ、健康に強壮に多産的になりうるということ、これが普遍的法則なのだ。自分のまわりに地平線を引く能力のない場合、あるいはまたあまりに自分一本槍で他人の身になって見ることができない場合、その生活体は、しなびはてて、あるいは息せききって、すみやかに没落してゆくのである。はれやかさ、くもりのない良心、欣然たる行動、来るべきものへの信頼――これらすべては、個人の場合も民族の場合も、見はるかしうる明るいものを、照破しがたい暗いものと屹然と分かつ一線が存すること、適当なときに想起すると同様、適当なときに忘却するすべを心得ていることによるのである。いつ歴史的に感ずることが必要であり、いつ非歴史的に感ずることが必要であるかを、強力な本能で感得することにかかっているのである。次にかかげる命題こそ、読者にとくと考えてもらいたい命題なのだ、『非歴史的なものと歴史的なものとは、個人、民族、文化の健康にとって、ともにひとしく必要である。』」
これはニーチェの「生に対する歴史の利害について」という著作からの引用です。"es war"という言葉そして言葉が持つ(発する)意味内容としてのes warそして行為におけるes warを使ってImperfectumを場に具現化しようとしたものが対人関係におけるコミュニケーションであり、それの極みがおそらくは異性同士の性愛です。しかし歴史を溜め込み過ぎるとフリーズしてしまうよともニーチェ先生はここで言ってます。恥意識が強すぎると好きな女に近寄ることもできないよということです。
ちょっとこれ以後はニーチェ先生特有のおかしいことが書いてあるんですけど、ここでヒットラーのようにキリスト的メシアを演じ政治政党を引き連れての壇上での演説ではなかった、生前の不遇な扱いをニーチェに与えることで人々がそれを阻止した、そういうことなんですかね?人々は100年くらいして人たらぬインターネットが社会に出るまで待ってたんですかね?不死者の身を背負いその確認と称して神々に遊ばれ攻撃されていたバルドルを殺してあげたロキは実はやさしい、みたいな。超人な光の神様が何も痛みを感じないなら不死身でもいいですけど。
Sakura no Sono
2012.06.20 Wednesday
望と絶の同時。
東ヨーロッパを少し旅すると分かりますけど、旧社会主義圏は本当に貧しいです。Max Weberは社会(科学)の文化性だとかなんだとか低レベルなこと言ってますけど、それはともかくとして、社会主義制度の計画経済のもとでは人間の問題解決能力も文化的なものについても培われませんし、それを生かす場がそもそも与えられないどころか場合によってそれがadministratorのエゴによって押しつぶされるという最悪な事態がおそらく前世紀まではあったりもしました。「資本主義」という言葉(ところ)から出発するから誤認が発生する、日本人の場合は日本のマスコミの稚拙な情報操作によってそれと拝金主義を同じものだと思い込んでしまうという事態が発生するというわけであって、社会的な問題を解決するには金が必要だということです。政治家の人たちがカネを必要とするように。政治家はテレビのお昼のワイドショー的解釈やマンガ的解釈に見られるように私利私欲を追い求めて酒池肉林でゲハゲハ笑うためにカネ(の流れ)を操作しているわけではないです。まあ一部に悪事を働いて社会に損益をもたらすようなやり口で大量の荒金を稼いでそれで税金を納めたとかなんとか得意げになっているバカも居ますけど。先の記事でも書いたように、少なくとも納税の点においてはそういった連中の悪質な行いにより(健全な)財やサービスの売り上げが減るその他で社会に損益がもたらされ突き詰めると国や地方公共団体に入るお金が減っているということもいくらでもあるわけであって経済学ではこれを数学を使って分析できますし、そもそも常識的に考えて悪事にいそしむ連中に稼がれたら余計に悪事にいそしまれるということで困るわけです。だからそういった連中に働かれると健全な一般市民に多大な損害が及ぶわけであって、そういったのは働いてもらわずともいいんで首を吊って死んでもらった方が良いんですね。こんな単純なこと小学生だって分かってると思うんですけど、悪いことをやって「働かれ」たら困るわけです。だから現代日本のマスコミ関係者なんかは雁首揃えて刎ね飛ばしたろかとは言わないまでも居なくなってもらった方が良いんですね。ネットで有りもしない情報を垂れ流したり操作したりして金を稼がれると、そういった悪事にいそしむ当人に稼がれると困るということ以外にも、多大な社会的損益がもたらされるというわけです。インフラとしてのネットが現代社会から無くなることは無いですけど、マスメディアが喧伝していたところのITはおそらく終わってます。
「人を傷つけなければ生きられない」ような人間はサッサと死ぬように出来てるはずなんですけど、何故そういった野蛮人は死なないんですかね?もうそういった人間がのさばって生きていられる時代は何十年も前に終わってるはずなんですけど。まあ答えを言うと、日本のマスメディアや出版業界が、社会の実態としては人を傷つけなければ生きられないような人間は生きられないにもかかわらず、「人を傷つけなければ生きられない」のが社会の実態であるかのように実態とは真逆の事態がそこにあると必死に見せかけていただけであるということです。他者に危害を加えるようなことを行えば即警察に捕まります。
とある場において指導する側の人間が指導される側の人間に対して彼が何か失敗をする度に威嚇するその他で注意を与えるというやり方がありますけど、これをやられる側は実戦の場で何か失敗をしそうになった時に自分でコントロールを利かせてそれを回避するということができなくなるんですね。これは結果的には指導する側の人間のエゴが指導される側の人間に押し付けられているというだけであって、百害あって一利無しです。人間誰しも物事を思惟したり思考したり感覚として感じたりする能力を持ってるんで、これといったコミュニケーションの手段を持たずにウホウホ言っている原始人や野蛮人ではないんで言葉を使え、言葉を使ってコミュニケーションを取るなり何がどうなっているかの説明をまずは言葉を使って行え、ということです。
おそらく軍事教練とかではこういったことがひたすら行われますけど、これはつまるところ先の記事で書いた増え過ぎた人口を基に特定の社会システムと社会システムをぶつけ合ってそのシステムのどちらが優秀であるかということを証明する為に社会システムを在らんたるものとせしめる帝国主義的なものをを是とするために行われることであって、文化闘争的な馬鹿げたことであるというか、もう戦争なんていう馬鹿げたことの無い今は人口が余程過剰に増えでもしない限りこんなことを教える必要は何処にも無いです。公立小中学校の体育とかで軍事教練じみたことなんか行う必要は皆無なのであって、体操とかは別ですけど、球技をやるんだったらアメリカ人みたいに皆で楽しく野球でもやってりゃいいんですね。
子供時代にレベルの低い人間との付き合いを強要されると、コミュニケーションにおいて程度の低い下ネタその他のギャグみたいなお笑いなんかを面白いものだと思い込まされてしまったりします。奉仕の精神というか、その低レベルな人間にとって喜ばしいものであることが「心地よい」「面白い」下手をすれば「正しい」ものであると思い込まされるという事態が出来上がってしまったりします、親である人間が悪徳であって幼児の頃からこれを刷り込まれたりしていると。だから、ある程度以上にレベルの高い人間にとって面白かったり興味深いことを言っているのであっても別にそうではないと思い込んでしまっているという事態もまたあったりします。これに陥ってしまうのはおそらく特に女性に多いです。「連れ合いが喜んでくれるから××やっちゃった」とか。
統合失調症(精神分裂病)の治療の到達点は、「隠し事をしない」というところです。少なくとも2012年時点では、特定の一個人だけが知っていてその人物以外の人間は知らないという事柄は無い、ということです。それが二次元平面上のマクロ的定常線でも何であっても、決まっていることというのは在るのであって、人間の脳やその機能も例外ではなく、おそらく悪質ではない精神科医の狙いは吐かせるものを吐かせてしまって健常な定常状態に患者を持っていって完治させると同時にその定常な状態がどういったものであるか理解させる知らしめるということにあります。Daに溶け込ませるというか、過度のcommunicationaizedを取り除く、という。世界中何処を探しても決まっていないことというのは人間関係だけであって、謂うなればそういったものは男女間の性愛に求めてください、という「お話」です。
存在する人間がその人間ばかりだと殺し合いになるかならないか、ということは、その人間を是とするか非とするかということにおいておそらく絶対的な指標たり得ます。欧米のキリスト教圏にはおそらくその人間ばかりでも殺し合いにはならないという人間が多いです。もちろん今は昔に比べて大分良くなりましたけど、日本人は残念ながら無政府主義的というかその逆です。
文明は西から東へと流れていきます。
東ヨーロッパを少し旅すると分かりますけど、旧社会主義圏は本当に貧しいです。Max Weberは社会(科学)の文化性だとかなんだとか低レベルなこと言ってますけど、それはともかくとして、社会主義制度の計画経済のもとでは人間の問題解決能力も文化的なものについても培われませんし、それを生かす場がそもそも与えられないどころか場合によってそれがadministratorのエゴによって押しつぶされるという最悪な事態がおそらく前世紀まではあったりもしました。「資本主義」という言葉(ところ)から出発するから誤認が発生する、日本人の場合は日本のマスコミの稚拙な情報操作によってそれと拝金主義を同じものだと思い込んでしまうという事態が発生するというわけであって、社会的な問題を解決するには金が必要だということです。政治家の人たちがカネを必要とするように。政治家はテレビのお昼のワイドショー的解釈やマンガ的解釈に見られるように私利私欲を追い求めて酒池肉林でゲハゲハ笑うためにカネ(の流れ)を操作しているわけではないです。まあ一部に悪事を働いて社会に損益をもたらすようなやり口で大量の荒金を稼いでそれで税金を納めたとかなんとか得意げになっているバカも居ますけど。先の記事でも書いたように、少なくとも納税の点においてはそういった連中の悪質な行いにより(健全な)財やサービスの売り上げが減るその他で社会に損益がもたらされ突き詰めると国や地方公共団体に入るお金が減っているということもいくらでもあるわけであって経済学ではこれを数学を使って分析できますし、そもそも常識的に考えて悪事にいそしむ連中に稼がれたら余計に悪事にいそしまれるということで困るわけです。だからそういった連中に働かれると健全な一般市民に多大な損害が及ぶわけであって、そういったのは働いてもらわずともいいんで首を吊って死んでもらった方が良いんですね。こんな単純なこと小学生だって分かってると思うんですけど、悪いことをやって「働かれ」たら困るわけです。だから現代日本のマスコミ関係者なんかは雁首揃えて刎ね飛ばしたろかとは言わないまでも居なくなってもらった方が良いんですね。ネットで有りもしない情報を垂れ流したり操作したりして金を稼がれると、そういった悪事にいそしむ当人に稼がれると困るということ以外にも、多大な社会的損益がもたらされるというわけです。インフラとしてのネットが現代社会から無くなることは無いですけど、マスメディアが喧伝していたところのITはおそらく終わってます。
「人を傷つけなければ生きられない」ような人間はサッサと死ぬように出来てるはずなんですけど、何故そういった野蛮人は死なないんですかね?もうそういった人間がのさばって生きていられる時代は何十年も前に終わってるはずなんですけど。まあ答えを言うと、日本のマスメディアや出版業界が、社会の実態としては人を傷つけなければ生きられないような人間は生きられないにもかかわらず、「人を傷つけなければ生きられない」のが社会の実態であるかのように実態とは真逆の事態がそこにあると必死に見せかけていただけであるということです。他者に危害を加えるようなことを行えば即警察に捕まります。
とある場において指導する側の人間が指導される側の人間に対して彼が何か失敗をする度に威嚇するその他で注意を与えるというやり方がありますけど、これをやられる側は実戦の場で何か失敗をしそうになった時に自分でコントロールを利かせてそれを回避するということができなくなるんですね。これは結果的には指導する側の人間のエゴが指導される側の人間に押し付けられているというだけであって、百害あって一利無しです。人間誰しも物事を思惟したり思考したり感覚として感じたりする能力を持ってるんで、これといったコミュニケーションの手段を持たずにウホウホ言っている原始人や野蛮人ではないんで言葉を使え、言葉を使ってコミュニケーションを取るなり何がどうなっているかの説明をまずは言葉を使って行え、ということです。
おそらく軍事教練とかではこういったことがひたすら行われますけど、これはつまるところ先の記事で書いた増え過ぎた人口を基に特定の社会システムと社会システムをぶつけ合ってそのシステムのどちらが優秀であるかということを証明する為に社会システムを在らんたるものとせしめる帝国主義的なものをを是とするために行われることであって、文化闘争的な馬鹿げたことであるというか、もう戦争なんていう馬鹿げたことの無い今は人口が余程過剰に増えでもしない限りこんなことを教える必要は何処にも無いです。公立小中学校の体育とかで軍事教練じみたことなんか行う必要は皆無なのであって、体操とかは別ですけど、球技をやるんだったらアメリカ人みたいに皆で楽しく野球でもやってりゃいいんですね。
子供時代にレベルの低い人間との付き合いを強要されると、コミュニケーションにおいて程度の低い下ネタその他のギャグみたいなお笑いなんかを面白いものだと思い込まされてしまったりします。奉仕の精神というか、その低レベルな人間にとって喜ばしいものであることが「心地よい」「面白い」下手をすれば「正しい」ものであると思い込まされるという事態が出来上がってしまったりします、親である人間が悪徳であって幼児の頃からこれを刷り込まれたりしていると。だから、ある程度以上にレベルの高い人間にとって面白かったり興味深いことを言っているのであっても別にそうではないと思い込んでしまっているという事態もまたあったりします。これに陥ってしまうのはおそらく特に女性に多いです。「連れ合いが喜んでくれるから××やっちゃった」とか。
統合失調症(精神分裂病)の治療の到達点は、「隠し事をしない」というところです。少なくとも2012年時点では、特定の一個人だけが知っていてその人物以外の人間は知らないという事柄は無い、ということです。それが二次元平面上のマクロ的定常線でも何であっても、決まっていることというのは在るのであって、人間の脳やその機能も例外ではなく、おそらく悪質ではない精神科医の狙いは吐かせるものを吐かせてしまって健常な定常状態に患者を持っていって完治させると同時にその定常な状態がどういったものであるか理解させる知らしめるということにあります。Daに溶け込ませるというか、過度のcommunicationaizedを取り除く、という。世界中何処を探しても決まっていないことというのは人間関係だけであって、謂うなればそういったものは男女間の性愛に求めてください、という「お話」です。
存在する人間がその人間ばかりだと殺し合いになるかならないか、ということは、その人間を是とするか非とするかということにおいておそらく絶対的な指標たり得ます。欧米のキリスト教圏にはおそらくその人間ばかりでも殺し合いにはならないという人間が多いです。もちろん今は昔に比べて大分良くなりましたけど、日本人は残念ながら無政府主義的というかその逆です。
文明は西から東へと流れていきます。
Johannistrieb
2012.06.21 Thursday
老いらく(の恋)、厄除け。
日本近海の海の水というのは日本海側の一部その他を除いて何処も非常に汚れているんですけど、そういった海で獲れた魚介類というのは食用のものとして大丈夫なんですかね?凄まじく毒素含んでそうなんですけど。寿司や魚の刺身を食すなんてのはどう考えても自殺行為にしか見えないんですけど。寿司は肉体労働者のおっちゃんたちの食い物です。体を動かして汗を流すこととは無縁の環境に生きている人間が寿司や魚の刺身なんか食べるとヤバいです。最近は鯖とかでもスーパーで非常に安価で良さげなものが売ってますけど、味的にも物質的にも鯖なんて人間の食い物だとは思えないんですけど。腐りやすいとか。塩サバ好きな女の人とか小っ恥ずかしくて想像しただけで気マズくなります。
Stoa School(ストア学派)というのがありますけど、少なくとも中世以降のキリスト教徒からすると古代異教徒のものとされてます。自己や魂や徳を扱いそれ以外はどうでもよいとかなってますけど、おそらくただのエゴイズムです。デカルトはこれを砂と泥との上に建てられたにすぎないきわめて豪奢な壮麗な宮殿にたとえ(られ)ると言ってますけど、馬鹿なネロに自殺を強要されたらばあっさりと死んだかの有名な哲学者セネカも言行不一致その他で評判は良くなかったんですね。晩年は田舎で葡萄栽培にいそしんでいたセネカもひょっとしたら毒を盛られていたりだとか。
その場における無知を克服する手段の一として「ネットで調べればすぐ」だとかなんとか言ってる人も居ますけど、ネットの情報なんざアテにならないというか、ただの悪ノリです。「調べて書く」派(?)の人たちと言うとちょっと皮肉なあてつけ気味で形容としてあまりよろしくないですけど、「調べた」モノはWikipediaであれ何であれ正しいというのはちょっと盲目過ぎます。
「一個の精神がどれほどの真理に堪え、どれほどの真理をあえて試みるかといこと、これが私にはますます真の価値標準と思われてきた。誤謬(――理想の信仰――)は盲目ではない、誤謬は臆病なのだ……。認識におけるあらゆる成果、あらゆる前進は、勇気によって生ずる……。自己に対する苛酷、自己に対する清潔さから生ずる……。私は理想を反駁しない、ただこれに対して手袋をはめる……。『われらは禁じられたる事物を求む』。この標語のもとに私の哲学はいつか勝利をおさめるであろう、なぜなら、原則的にこれまで世人は真理にかぎって、これを禁じてきたからだ。」
これはニーチェの「Ecce Homo(この人を見よ~いかにして人は自己自身となるか)」という著作の冒頭の文章から持ってきたものですけど、ニーチェ先生ここで珍走し過ぎて腐ったサバみたいなこと言ってますが、誤謬が盲目の産物ではなく臆病(のそれ)であるとはよくヌカしたなというお話です。試みるまでもなく、試みうる術すらなく、真(理)・真実というのはただそこにあるDaseinなのであって、世人が真(理)・真実に限ってこれを禁じてきたのではなくて禁じ得ない禁じる術すらそもそも無いものであるということです。目の前にはパソコンのモニターが在るだけです。
精神病の患者が自閉的になる場合は、「引きこもり」という表現は的確ではなく、「押し出すことによって押し切って(空気読み過ぎちゃって)引きこもり」になるという自閉のパターンであり、「引きこもり」ではなく「自己による自己の押し潰し」という表現が適切です。Oscar Wildeのような芸術のための芸術を標榜できる脳天気な幸せな人ならばいいんですけど、やっぱりネットでも叩きとか病的なことに走っちゃう人が多さげです。
Youtubeかなんかで「ヘリコプターを嫌がらせだと思い込む」というタイトルで空を飛ぶヘリコプターをその騒音と共に撮影しているという映像を見ました。これはおそらく精神科へかかると統合失調症であると診断される典型的な精神異常者が撮影したものとしてネットにupされているわけですが、普通こんなこと誰もやりません、というか精神異常者というのはこういった類のことは行いません。普通に考えてもらえば分かると思うんですけど、仮に空を飛ぶヘリコプターをそれが自分への騒音その他による嫌がらせであると考えた人物が居たとして、それを撮影しネットにupしたところでそれが自分への嫌がらせであることの証明にはならないと考えるのが一般的でありまたこの点については精神分裂病(統合失調症)患者も一般の人間と同じです。こういった行為を本意で行う人間が居たとしたら、それは非常に高い確率で知的障害と呼ばれる部類の人たちです。統合失調症患者というのは知的減弱については一切観察されません。で、ここからが本題なんですけど、「『ヘリコプターを嫌がらせだと思い込む』というタイトルで空を飛ぶヘリコプターをその騒音と共に撮影した映像をネットでも前世紀であったらばテレビでも使って垂れ流しターゲットに対して見せ付ける」という行為によって、そもそも精神科にて統合失調症であると診断され「ヘリコプターを嫌がらせだと思い込む」こともまた統合失調症の主症状である妄想の一環であるとの認識を与えられたことが前提になっている人間(ターゲット)に対してそれを加害行為として成立させることができます。これは漫画家の冨樫義博さんがHUNTER×HUNTERの10巻あたりで旅団のアジトへ連れて行かれるゴンとキルアの場面でキルアの「今調べられるとヤバい、何故なら(鎖野郎が鎖野郎であると)連想してしまっているから(だから今調べられると鎖野郎が自分の知っているアイツであると分かられてしまう」という脳内の連想でこれと同じことを描いてます。平たく分かりやすく例え話で言うと、「『ヘリコプターを嫌がらせだと思い込む』というタイトルで空を飛ぶヘリコプターをその騒音と共に撮影した映像」を見た次の瞬間に爆騒音を立てながらその当該のターゲットが居る場所の上空をマスコミのヘリコプターやセスナ機が通過したりするわけです。それ以後部屋で音楽を聴く度にヘリコプターやセスナ機のとは言わないまでも暴走バイクの爆音が垂れ流され、とか。嫌がらせを行う側の人間はまず嫌がらせが嫌がらせであることをターゲットに認識させなければ自分の行為を嫌がらせだと関知してもらえないわけです。ネットがある今ではこういった一種の「知らしめ」を行うことも技術的にいくらでも可能であり……というよりは、ネットの場合は逆にネットがあるからこそこういった悪質な連中の悪質な手口が客観的に分かったりもするというわけです。前世紀のネットが無くてテレビだけがあった時代というのはおそらく最悪でした。どれだけ犠牲者が居たか分かりません。これが先の記事で書いた、「晴れの天気である」という事象において、特定のxさんが行動Aをとった時はxさんは「晴れの天気である」ことには気付かずxさんが行動Bをとった時にはxさんは「晴れの天気である」ことに気付く場合において行動Bを繰り返していると、xさんは「自分が行動Bをとったから→晴れの天気である」という誤った認識にいつの間にか取り憑かれていく、とかいったことであると間違いである可能性がほぼ100%ですけど、日本のマスコミは平気でこういったことを行います、連中は事件が欲しくて欲しくて仕方がないので。古くはFriedrich Wilhelm NietzscheやAdolf HitlerやVirginia Woolf、これに近い人間として富野由悠季という人だとかラルクの歌ってる人だとか、そしておそらくは大阪の国立小学校に乱入して児童を多数殺傷して死刑になった宅間守という人や、秋葉原通り魔の加藤智大さんや、たぶん村上春樹さんが書いてますけど下手をすれば麻原彰光という人物までもがこれの犠牲者です。
家の周辺に事あるごとに現れる暴走バイクの立てる騒音とかは非常に迷惑ですけど、こういったものを除いて、私はこれについては私の「病気」の治療の一環であると今は理解している上にこのブログでもこれについては書き尽くしたので、あまりもうこれについてガタガタ言う気はありません。隠し事をしない、隠し事などそもそも存在しない在り得ないということであって、そこから一つ一つの知的営みを出発させていこうね、ということです。抗精神病薬については、使い方や種目によって毒にもなりますし薬にもなります。抗精神病薬リスパダールは飲んでいる期間中は健康を害し、服薬を止めると肥満します。抗精神病薬ジプレキサは飲んでいる期間中は肥満し、服薬を止めると痩せます(健康は害さない、冷や汗をかく程度)。それが五感のどれを通してでも、悪い情報を蓄えてしまうと、人間歪んで心身悪くなるよ、と。罪の痛み。現実世界では上で書いたマンガのような事は無いです、やったこともやらないことも悪事も善事もバレるようになってるので。恥意識よりも罪の方が余程重く痛みをもたらします。
日本近海の海の水というのは日本海側の一部その他を除いて何処も非常に汚れているんですけど、そういった海で獲れた魚介類というのは食用のものとして大丈夫なんですかね?凄まじく毒素含んでそうなんですけど。寿司や魚の刺身を食すなんてのはどう考えても自殺行為にしか見えないんですけど。寿司は肉体労働者のおっちゃんたちの食い物です。体を動かして汗を流すこととは無縁の環境に生きている人間が寿司や魚の刺身なんか食べるとヤバいです。最近は鯖とかでもスーパーで非常に安価で良さげなものが売ってますけど、味的にも物質的にも鯖なんて人間の食い物だとは思えないんですけど。腐りやすいとか。塩サバ好きな女の人とか小っ恥ずかしくて想像しただけで気マズくなります。
Stoa School(ストア学派)というのがありますけど、少なくとも中世以降のキリスト教徒からすると古代異教徒のものとされてます。自己や魂や徳を扱いそれ以外はどうでもよいとかなってますけど、おそらくただのエゴイズムです。デカルトはこれを砂と泥との上に建てられたにすぎないきわめて豪奢な壮麗な宮殿にたとえ(られ)ると言ってますけど、馬鹿なネロに自殺を強要されたらばあっさりと死んだかの有名な哲学者セネカも言行不一致その他で評判は良くなかったんですね。晩年は田舎で葡萄栽培にいそしんでいたセネカもひょっとしたら毒を盛られていたりだとか。
その場における無知を克服する手段の一として「ネットで調べればすぐ」だとかなんとか言ってる人も居ますけど、ネットの情報なんざアテにならないというか、ただの悪ノリです。「調べて書く」派(?)の人たちと言うとちょっと皮肉なあてつけ気味で形容としてあまりよろしくないですけど、「調べた」モノはWikipediaであれ何であれ正しいというのはちょっと盲目過ぎます。
「一個の精神がどれほどの真理に堪え、どれほどの真理をあえて試みるかといこと、これが私にはますます真の価値標準と思われてきた。誤謬(――理想の信仰――)は盲目ではない、誤謬は臆病なのだ……。認識におけるあらゆる成果、あらゆる前進は、勇気によって生ずる……。自己に対する苛酷、自己に対する清潔さから生ずる……。私は理想を反駁しない、ただこれに対して手袋をはめる……。『われらは禁じられたる事物を求む』。この標語のもとに私の哲学はいつか勝利をおさめるであろう、なぜなら、原則的にこれまで世人は真理にかぎって、これを禁じてきたからだ。」
これはニーチェの「Ecce Homo(この人を見よ~いかにして人は自己自身となるか)」という著作の冒頭の文章から持ってきたものですけど、ニーチェ先生ここで珍走し過ぎて腐ったサバみたいなこと言ってますが、誤謬が盲目の産物ではなく臆病(のそれ)であるとはよくヌカしたなというお話です。試みるまでもなく、試みうる術すらなく、真(理)・真実というのはただそこにあるDaseinなのであって、世人が真(理)・真実に限ってこれを禁じてきたのではなくて禁じ得ない禁じる術すらそもそも無いものであるということです。目の前にはパソコンのモニターが在るだけです。
精神病の患者が自閉的になる場合は、「引きこもり」という表現は的確ではなく、「押し出すことによって押し切って(空気読み過ぎちゃって)引きこもり」になるという自閉のパターンであり、「引きこもり」ではなく「自己による自己の押し潰し」という表現が適切です。Oscar Wildeのような芸術のための芸術を標榜できる脳天気な幸せな人ならばいいんですけど、やっぱりネットでも叩きとか病的なことに走っちゃう人が多さげです。
Youtubeかなんかで「ヘリコプターを嫌がらせだと思い込む」というタイトルで空を飛ぶヘリコプターをその騒音と共に撮影しているという映像を見ました。これはおそらく精神科へかかると統合失調症であると診断される典型的な精神異常者が撮影したものとしてネットにupされているわけですが、普通こんなこと誰もやりません、というか精神異常者というのはこういった類のことは行いません。普通に考えてもらえば分かると思うんですけど、仮に空を飛ぶヘリコプターをそれが自分への騒音その他による嫌がらせであると考えた人物が居たとして、それを撮影しネットにupしたところでそれが自分への嫌がらせであることの証明にはならないと考えるのが一般的でありまたこの点については精神分裂病(統合失調症)患者も一般の人間と同じです。こういった行為を本意で行う人間が居たとしたら、それは非常に高い確率で知的障害と呼ばれる部類の人たちです。統合失調症患者というのは知的減弱については一切観察されません。で、ここからが本題なんですけど、「『ヘリコプターを嫌がらせだと思い込む』というタイトルで空を飛ぶヘリコプターをその騒音と共に撮影した映像をネットでも前世紀であったらばテレビでも使って垂れ流しターゲットに対して見せ付ける」という行為によって、そもそも精神科にて統合失調症であると診断され「ヘリコプターを嫌がらせだと思い込む」こともまた統合失調症の主症状である妄想の一環であるとの認識を与えられたことが前提になっている人間(ターゲット)に対してそれを加害行為として成立させることができます。これは漫画家の冨樫義博さんがHUNTER×HUNTERの10巻あたりで旅団のアジトへ連れて行かれるゴンとキルアの場面でキルアの「今調べられるとヤバい、何故なら(鎖野郎が鎖野郎であると)連想してしまっているから(だから今調べられると鎖野郎が自分の知っているアイツであると分かられてしまう」という脳内の連想でこれと同じことを描いてます。平たく分かりやすく例え話で言うと、「『ヘリコプターを嫌がらせだと思い込む』というタイトルで空を飛ぶヘリコプターをその騒音と共に撮影した映像」を見た次の瞬間に爆騒音を立てながらその当該のターゲットが居る場所の上空をマスコミのヘリコプターやセスナ機が通過したりするわけです。それ以後部屋で音楽を聴く度にヘリコプターやセスナ機のとは言わないまでも暴走バイクの爆音が垂れ流され、とか。嫌がらせを行う側の人間はまず嫌がらせが嫌がらせであることをターゲットに認識させなければ自分の行為を嫌がらせだと関知してもらえないわけです。ネットがある今ではこういった一種の「知らしめ」を行うことも技術的にいくらでも可能であり……というよりは、ネットの場合は逆にネットがあるからこそこういった悪質な連中の悪質な手口が客観的に分かったりもするというわけです。前世紀のネットが無くてテレビだけがあった時代というのはおそらく最悪でした。どれだけ犠牲者が居たか分かりません。これが先の記事で書いた、「晴れの天気である」という事象において、特定のxさんが行動Aをとった時はxさんは「晴れの天気である」ことには気付かずxさんが行動Bをとった時にはxさんは「晴れの天気である」ことに気付く場合において行動Bを繰り返していると、xさんは「自分が行動Bをとったから→晴れの天気である」という誤った認識にいつの間にか取り憑かれていく、とかいったことであると間違いである可能性がほぼ100%ですけど、日本のマスコミは平気でこういったことを行います、連中は事件が欲しくて欲しくて仕方がないので。古くはFriedrich Wilhelm NietzscheやAdolf HitlerやVirginia Woolf、これに近い人間として富野由悠季という人だとかラルクの歌ってる人だとか、そしておそらくは大阪の国立小学校に乱入して児童を多数殺傷して死刑になった宅間守という人や、秋葉原通り魔の加藤智大さんや、たぶん村上春樹さんが書いてますけど下手をすれば麻原彰光という人物までもがこれの犠牲者です。
家の周辺に事あるごとに現れる暴走バイクの立てる騒音とかは非常に迷惑ですけど、こういったものを除いて、私はこれについては私の「病気」の治療の一環であると今は理解している上にこのブログでもこれについては書き尽くしたので、あまりもうこれについてガタガタ言う気はありません。隠し事をしない、隠し事などそもそも存在しない在り得ないということであって、そこから一つ一つの知的営みを出発させていこうね、ということです。抗精神病薬については、使い方や種目によって毒にもなりますし薬にもなります。抗精神病薬リスパダールは飲んでいる期間中は健康を害し、服薬を止めると肥満します。抗精神病薬ジプレキサは飲んでいる期間中は肥満し、服薬を止めると痩せます(健康は害さない、冷や汗をかく程度)。それが五感のどれを通してでも、悪い情報を蓄えてしまうと、人間歪んで心身悪くなるよ、と。罪の痛み。現実世界では上で書いたマンガのような事は無いです、やったこともやらないことも悪事も善事もバレるようになってるので。恥意識よりも罪の方が余程重く痛みをもたらします。
Hellene
2012.06.24 Sunday
賢者。
精神科医は一般的に抗精神病薬には「主作用と副作用がある」と説明しますけど、これは罠だと考えるのが妥当です。認識すべきところは「抗精神病薬を服薬するとどういった作用が自分の肉体に及ぼされるか」ということであって、「副作用があってつらいけど、主作用によって効いているはずだから精神科医の先生の言うとおり薬を飲まなきゃいけないなあ」とか思っているうちは統合失調症は絶対に治りません。つまり後者の発想をする患者は他者依存・他物依存に浸食されきっていて、肉体ひいては脳の調子を整えるという発想が無いので薬物投与以外のことを受容しないできないどころか、今度はその現状では苦しみをもたらすだけである抗精神病薬の服薬以外のことへと依存していくようになってしまいます。で、悪いものをそれと気付かず食べてしまったり、ゲームなんかの悪いものにハマってしまったり、最悪の場合他者に危害を加えかねません。ここでお勧めなのが、作業療法だの音楽療法だのよりも、言語化して記述して残していくという方法です。これによって何度も何度も想起されて胃のむかつきどころではない不快感を与える辛い記憶も一発で脳内から消去されていきます。
また書いてしまいますけど、私SSが個人的にかかわったM'z a 悪意医師(仮称)は精神科医としての職務上故意に患者を挑発し嫉妬豚を演じているという医師でした。東京都小平市にある国立精神・神経センター病院は私がそこへ通院し始めた四年前は国立病院で、その私が通院し始めた一年後から独立行政法人になりました。ここの医師は謂わば医務系の官僚みたいなものです。で、それを漠然と理解させた上で官僚的人間はこういったものであるというマンガ並に低レベルな空気を故意に精神病患者に読ませるわけです。これが功を為すには抗精神病薬の効能による物事の認識能力の低下が前提となっています。少なくともこの精神科医に限って言えば精神病患者に人間関係とはこういったものであると故意に稚拙な演劇を行うことで工学化されたそれを抗精神病薬の効能やストーカーによる恐怖と共に刷り込んで教え込もうとしているということです。しかしこれは一歩間違うと強姦行為です。これがあまりに抗精神病薬が効き過ぎていることによって事象の認知能力が阻害されていると、単純に「官僚はわるいやつだ」という「左」翼な発想へと引っ張って流して落とし込まれるということに相成ってしまいます。
ちなみに私SSは東京大学の付属病院でもこの同じような内容の稚拙な演技をやられました。
人間関係工学化は物分かりの悪さの具象化であって、エニアグラムの性格判断だかで人間の性格にレッテルを貼る行為など物分かりの悪さの具現化現象です。例えば、
「 AさんとBさんという人が居る。AさんはBさんの保護者である。Aさんは世に禍根を巻き起こしたくない為そしてその自分の意志を証明するため、何者の保護者でもあり得ないかもしくはBさんに職業人としての自分に因る重荷を背負わせないかという選択の内、後者を選び、そしてBさんの罰を代わりに受けるという形で自分の正当性を証明している……のみならず、Bさんにストレスを与え追い詰めそして悪事を起こさせそしてその罰を自分が受けるという形で自分が業とは無縁であるという自分の絶対的テーゼを立証することに躍起になっている。……Aさんは神になりたいのである。威張りたいのである。このような人格では子供の頃から他者にひたすら馬鹿にされ疎まれたからであろう。」
という私が書いたこの小話にて体現されているAさんの行動というものも、また人間関係を工学化する人間においては有り得てしまうんですね。これの最たるものが女性が男性によって支配されるという関係であり、場合にもよるでしょうけどそりゃ一方的にやられりゃ女の人は怒るにきまってます。これの極みは強姦だからです。男だってそれとは知らされずにこんなことされたらウザいです。これを愛の証だとか見做すのは、ちょっと旧時代的だとか古代ギリシア的だとかいうよりは、おそらく(女性的な)男の側から解釈した男の生殖機能にまつわる男の唯一のエゴです。結果としてのお話、男という生き物は人間の自由意志を否定したいが為に身を犠牲にしてまでこういった「証明」に走るということなのかもしれません。
これは現代の教育においても同じことが言えます。例えば、ヒトの体においてビタミンB1が不足すると脚気になります。豚肉にはビタミンB類が多く含まれてますけど、豚肉を摂取するにおいて「ビタミンBが足りないから(豚肉を食す)」という発想に取り付かれていると豚肉を食べるということがどういったことなのかということを知ることができない、それに対して盲目になります。例えば、サプリメントなんかでビタミンBを過剰に摂取するとその後に排出される尿の色が過度に黄色くなります。で、豚は「黄色い豚(yellow pig)」とも呼ばれたりします。
ここに「とある事実について明らかであるにもかかわらずその事実を科学的に実証して自らに不利益になるようなことは実証者は実証しない」という論理実証主義の落とし穴があります。「嘘と真実(Lies and Truth)」という表現がありますけど、論理実証主義に落ち込んでいると結果的にこの「嘘」を人々に対して教えている、ということになるんですね。だから一部の良心的な人たちは「学校では嘘教えとる!」ということを言ったりしますけど、これは間違いではないです。学校で情報として与えられる科学的に実証された事柄が事実無根のことであるということはないですけど、教え方を間違えているんですね。「ビタミンBが足りなくなると脚気その他で具合が悪くなるから豚肉を食べましょうね」という教え方を学校ではしますけど、そうではなくて豚肉を食べるということはどういったことなのかそして豚肉を食べるとどういった事態が自分の肉体について起こるのかということをきちんと子供の頃から教えないとマズいということです。ちなみに私は豚肉はもう今は食べません。
ニーチェは「この人を見よ」という著作の最後で自分が「キリスト教道徳を(言語化して)露呈した」ことを自分の誇りでありプラスであるかのように書いてますが、これが大馬鹿だというんですね。さらにはそのまた最後で書いてますけど、善人と悪人が逆転して形容されている、と。これはユダヤの人たちの発想であって、最弱者であるニーチェ先生が弱者蹂躙を謳っているということで非常な選民思想です。ニーチェは実際口が利けなくなったり視力が弱ったりで病気だらけでした。おそらく世の中の人間全てがニーチェになったら滅茶苦茶というか最悪なことになります。
「――私の言うことが、わかったろうか?――十字架に掛けられた者に対するディオニソス……」
とこれの最後にありますけど、キリスト教会が後世にiconとして設置した絶対的シンボルとしてのキリストたるイエスを否として暴露してやった俺はディオニソスだぞどうだすごいだろう、とニーチェ先生酒に酔っ払ってこれを書いたのではないかと疑われるような内容ですけど、この「十字架に掛けられた者」を実在のナザレのイエスさんであるとするとニーチェがニーチェ自身を神と見做していると考えることも可能なんですね。ここでニーチェ先生最後の最後でがらりと価値の転換(保身?)を狙ったのかもしれませんけど、アインシュタインの言っていることを彷彿とさせます。アインシュタインも一歩間違えればニーチェのように、ニーチェも不幸な目に合わなければアインシュタインになっていたのかもしれないです。どちらも地獄でしょうけど。
人生の失敗は単純に「悪いことをやった」ということに尽きます。悪いことを行うと単純に悪い結果が自分を襲ってくるということです。悪事に加担せず真面目にやっていれば順当に社会で出世できるようになってます。administratorな人たちは真面目な人間が最も評価されうるものであるということをきちんと理解してます。
精神科医は一般的に抗精神病薬には「主作用と副作用がある」と説明しますけど、これは罠だと考えるのが妥当です。認識すべきところは「抗精神病薬を服薬するとどういった作用が自分の肉体に及ぼされるか」ということであって、「副作用があってつらいけど、主作用によって効いているはずだから精神科医の先生の言うとおり薬を飲まなきゃいけないなあ」とか思っているうちは統合失調症は絶対に治りません。つまり後者の発想をする患者は他者依存・他物依存に浸食されきっていて、肉体ひいては脳の調子を整えるという発想が無いので薬物投与以外のことを受容しないできないどころか、今度はその現状では苦しみをもたらすだけである抗精神病薬の服薬以外のことへと依存していくようになってしまいます。で、悪いものをそれと気付かず食べてしまったり、ゲームなんかの悪いものにハマってしまったり、最悪の場合他者に危害を加えかねません。ここでお勧めなのが、作業療法だの音楽療法だのよりも、言語化して記述して残していくという方法です。これによって何度も何度も想起されて胃のむかつきどころではない不快感を与える辛い記憶も一発で脳内から消去されていきます。
また書いてしまいますけど、私SSが個人的にかかわったM'z a 悪意医師(仮称)は精神科医としての職務上故意に患者を挑発し嫉妬豚を演じているという医師でした。東京都小平市にある国立精神・神経センター病院は私がそこへ通院し始めた四年前は国立病院で、その私が通院し始めた一年後から独立行政法人になりました。ここの医師は謂わば医務系の官僚みたいなものです。で、それを漠然と理解させた上で官僚的人間はこういったものであるというマンガ並に低レベルな空気を故意に精神病患者に読ませるわけです。これが功を為すには抗精神病薬の効能による物事の認識能力の低下が前提となっています。少なくともこの精神科医に限って言えば精神病患者に人間関係とはこういったものであると故意に稚拙な演劇を行うことで工学化されたそれを抗精神病薬の効能やストーカーによる恐怖と共に刷り込んで教え込もうとしているということです。しかしこれは一歩間違うと強姦行為です。これがあまりに抗精神病薬が効き過ぎていることによって事象の認知能力が阻害されていると、単純に「官僚はわるいやつだ」という「左」翼な発想へと引っ張って流して落とし込まれるということに相成ってしまいます。
ちなみに私SSは東京大学の付属病院でもこの同じような内容の稚拙な演技をやられました。
人間関係工学化は物分かりの悪さの具象化であって、エニアグラムの性格判断だかで人間の性格にレッテルを貼る行為など物分かりの悪さの具現化現象です。例えば、
「 AさんとBさんという人が居る。AさんはBさんの保護者である。Aさんは世に禍根を巻き起こしたくない為そしてその自分の意志を証明するため、何者の保護者でもあり得ないかもしくはBさんに職業人としての自分に因る重荷を背負わせないかという選択の内、後者を選び、そしてBさんの罰を代わりに受けるという形で自分の正当性を証明している……のみならず、Bさんにストレスを与え追い詰めそして悪事を起こさせそしてその罰を自分が受けるという形で自分が業とは無縁であるという自分の絶対的テーゼを立証することに躍起になっている。……Aさんは神になりたいのである。威張りたいのである。このような人格では子供の頃から他者にひたすら馬鹿にされ疎まれたからであろう。」
という私が書いたこの小話にて体現されているAさんの行動というものも、また人間関係を工学化する人間においては有り得てしまうんですね。これの最たるものが女性が男性によって支配されるという関係であり、場合にもよるでしょうけどそりゃ一方的にやられりゃ女の人は怒るにきまってます。これの極みは強姦だからです。男だってそれとは知らされずにこんなことされたらウザいです。これを愛の証だとか見做すのは、ちょっと旧時代的だとか古代ギリシア的だとかいうよりは、おそらく(女性的な)男の側から解釈した男の生殖機能にまつわる男の唯一のエゴです。結果としてのお話、男という生き物は人間の自由意志を否定したいが為に身を犠牲にしてまでこういった「証明」に走るということなのかもしれません。
これは現代の教育においても同じことが言えます。例えば、ヒトの体においてビタミンB1が不足すると脚気になります。豚肉にはビタミンB類が多く含まれてますけど、豚肉を摂取するにおいて「ビタミンBが足りないから(豚肉を食す)」という発想に取り付かれていると豚肉を食べるということがどういったことなのかということを知ることができない、それに対して盲目になります。例えば、サプリメントなんかでビタミンBを過剰に摂取するとその後に排出される尿の色が過度に黄色くなります。で、豚は「黄色い豚(yellow pig)」とも呼ばれたりします。
ここに「とある事実について明らかであるにもかかわらずその事実を科学的に実証して自らに不利益になるようなことは実証者は実証しない」という論理実証主義の落とし穴があります。「嘘と真実(Lies and Truth)」という表現がありますけど、論理実証主義に落ち込んでいると結果的にこの「嘘」を人々に対して教えている、ということになるんですね。だから一部の良心的な人たちは「学校では嘘教えとる!」ということを言ったりしますけど、これは間違いではないです。学校で情報として与えられる科学的に実証された事柄が事実無根のことであるということはないですけど、教え方を間違えているんですね。「ビタミンBが足りなくなると脚気その他で具合が悪くなるから豚肉を食べましょうね」という教え方を学校ではしますけど、そうではなくて豚肉を食べるということはどういったことなのかそして豚肉を食べるとどういった事態が自分の肉体について起こるのかということをきちんと子供の頃から教えないとマズいということです。ちなみに私は豚肉はもう今は食べません。
ニーチェは「この人を見よ」という著作の最後で自分が「キリスト教道徳を(言語化して)露呈した」ことを自分の誇りでありプラスであるかのように書いてますが、これが大馬鹿だというんですね。さらにはそのまた最後で書いてますけど、善人と悪人が逆転して形容されている、と。これはユダヤの人たちの発想であって、最弱者であるニーチェ先生が弱者蹂躙を謳っているということで非常な選民思想です。ニーチェは実際口が利けなくなったり視力が弱ったりで病気だらけでした。おそらく世の中の人間全てがニーチェになったら滅茶苦茶というか最悪なことになります。
「――私の言うことが、わかったろうか?――十字架に掛けられた者に対するディオニソス……」
とこれの最後にありますけど、キリスト教会が後世にiconとして設置した絶対的シンボルとしてのキリストたるイエスを否として暴露してやった俺はディオニソスだぞどうだすごいだろう、とニーチェ先生酒に酔っ払ってこれを書いたのではないかと疑われるような内容ですけど、この「十字架に掛けられた者」を実在のナザレのイエスさんであるとするとニーチェがニーチェ自身を神と見做していると考えることも可能なんですね。ここでニーチェ先生最後の最後でがらりと価値の転換(保身?)を狙ったのかもしれませんけど、アインシュタインの言っていることを彷彿とさせます。アインシュタインも一歩間違えればニーチェのように、ニーチェも不幸な目に合わなければアインシュタインになっていたのかもしれないです。どちらも地獄でしょうけど。
人生の失敗は単純に「悪いことをやった」ということに尽きます。悪いことを行うと単純に悪い結果が自分を襲ってくるということです。悪事に加担せず真面目にやっていれば順当に社会で出世できるようになってます。administratorな人たちは真面目な人間が最も評価されうるものであるということをきちんと理解してます。
Eris
2012.06.30 Saturday
いとしのエリー。
femme fatale.
女性にまつわる不快な記憶といえばいくつもあるんですけど、私は大学の時にチェーンの餃子屋で二、三回アルバイトをした(させてもらった)ことがあって、その時に仕事が終わって着替え室へ入って私服に着替えようとしたらば、先に入って着替えていた自分と同じく入ったばかりの女がこちらをしきりに見ながらベタなドラマの頭の悪い俳優の演技の如く携帯電話で何か必死に話してるんですね。発していたセリフは「切らないで、切らないで」とかです。その瞬間「ああ、」と思って私は込み上げる胃のムカつきと極度のウザさを我慢しながら普通にサッと着替えてワザと大きい声で「お疲れです。」と言って退室したんですけど、女を求めない男に対してこういった攻撃を女というのは行っていくものなんだな、と私はそこで彼女らの異常性を感じてますます女には近寄らなくなりました。しかもこの女は、それの一、二時間前にまかないの食事を私と一緒にその同じ部屋にてテレビを見てしゃべりながら取ったばかりであって、それが急激にああいった中学生レベルの分かりやす過ぎるおそらくは貶めもしくは嫌がらせの行為をやらかしちゃうということなんで、まあ普通の人だったらばこの女従業員とそれを雇っているこの飲食店に疑いと軽蔑の目を向けます。ちなみに私SSもこの点に関しては普通の人です。もちろん私はこの時を最後にサッサとこの店のアルバイトは辞めました。
他には、とある場所で私が長い時間の徒歩の疲れを癒そうとジュースを買い求めるその品目をどれにしようかと選ぶのに迷っていたら、バイトかなにかの旗持ちの若い女がその自販機の真上2~3mの位置にあった階段の途中の踊り場のようなところで旗立て作業を中断してこちらをしかめ面で見ながらスタンバっていたということがあったりもしました。私はジュースを買って栓を開けてゴクゴクと飲んだ後でそれに気付いて「ああ、」と思いました。テメーのパンツなんか見たくねーよバカ女、というわけであって、勘違われる側としては非常に不快で迷惑です。女というのはこうやって気に入らない男を悪人に仕立て上げてゆくというものなのであろう、ということであって、やっぱり本人たちも男性に対して気持ちの悪い思いをして間違えた方向性で警戒心が強くなっているところのブサイクな不美人な女性にコレが多いです。
あと最近の例だと、今通っているN口クリニックにて半年くらい前の初回の診療の時に精神科医の診療の前に心理士の強制的なカウンセリングを受けさせられるということがあったんですけど、このN和という名札を付けたおそらくは臨床心理士がカウンセリングの後に何故かバツの悪そうな顔で私を診療室へ招きいれ、そして精神科医のk子kurseマ医師がそれに合わせて何故か必死で決まりの悪そうな顔をしている、というものがありました。これについては実のところ精神科クリニックにおけるプログラムされた来院者に対するお決まりの加害妄想の煽りというものです。高校生レベルですけど。
別にいい男でもない下手をすれば醜男が女を求めないとなると一部の不美人だったりする女性はこういった先制攻撃を仕掛けてくるんですね。私は父方の叔母がこういった人間で子供の頃からソレを視界に入れられるだけで不快感満面なんですけど、こういったものの中でも極めて下俗悪で低レベルなものであると女を求めない男に対してそれだけで同性愛者のホモであるとか。私は若い頃思春期の頃からそもそも女性に近寄るまいとしていたのであって、それでしてこういったことをされたというわけであってますます女性に対する不信感が募りました。そりゃ私も自分が好きな女に好かれたいというのはありますけど、女なら誰でもよいというわけではないので。
女は罪深い生き物だとかみだらな生き物だとかいった価値意識が昔から特にキリスト教圏ではありますけど、簡単に言うと女は肉の存在上は罪であって抱く意志は賢いということです。男は逆であってその意志が罪深いということです、前の記事で書いたように女と交わりたいというところにそのおそらくは集約されたエゴを持つので。animusを持つ女はその抱く意志においては虚無から生まれたものであると自らを自覚しそして全てを虚無にしようと少なくとも意志はするものなのかもしれないです、だから意思の表象上はイケナイことを拒むと。animaを持つ男は逆に生み出してしまうということであって、だから意思の表象上はイケナイことの為に全てをささげると。そしてだから行動の表象上女は男を馬鹿だと言う。アニマは肉の穢れ、アニムスはニヒル。
性愛に限った問題ですけど、男性が女性に神秘性を感じるのは、やはり根源的にはニヒルであって正体不明なものでるから(犯してモノにしたい)という発想から来てます。知らないものはさっさと自己内で情報として消化してしまいたいということであって、私はあまりこの言い方好きではないですけど、「モノにする」というのはそういう意味合いです。これは女性性たるアニマな発想です、外部性の内部化とか。フランス語でfemme-objetという「物としての女性」「主体として扱われない女」という意味の言葉があります、他にもちょっと忘れましたけど日本語で「永遠の被害者」という意味を表す慣用句かなにかがありました。これが危険な方向へ高じると、「女は何を考えているか分からん」ということになって、特定の女の人に危害を加えたり蹂躙したりということになってしまいます。
女性は生まれながらにしておそらく男性には分からないプレッシャーを感じてます。最後に行き着くところは女か男かというところしかないので、女性はおそらく特定一個人の男性に愛されるというのでなければ真の満足を得られないというか下手をすれば生まれなきゃよかったということになってしまうっぽいです。精神疾患を抱えた人間であってもこういう感慨を抱くことが多いですけど、基本的に精神の病はやはり女性のものです。その先がどうなるものなのかも分からずに女を強姦する男とかは陰茎切り落としてラーメンの具にしたろかと思いますけど。女性で男性を犯してしまう悲しい女の人には奇妙に愛情を覚えるんですけど。
女性が強姦される苦しみというのは、男性における例えば黒人の兄ちゃんに一発ケツを掘られるとかいうものとは比較になりません。おそらく男性の場合における陰茎と睾丸を切除されるというのと同じものだと考えるのが妥当です。宦官です。中年かそれ以上の年齢の男性でインポテンツになってしまって陰茎が萎縮した状態で保たれてしまっているという人も居ますけど、これがおそらく近いものであって、そうとう身体的に苦しい状態です。
女性は女性で存在がエゴイスティックなので、男性の生殖機能にまつわる唯一のエゴについてもちゃんと理解はしてくれるというわけです。しかしだからこそ女性は「私でいいの?」というセリフを吐くというわけであって、飢えた最中の男はよかですというわけで事後にそれとは別の女性にたかったりすると「私のことは遊びだったのね」と言われ恨まれるというわけです、たぶん。
森にはおばけが住んでいて女子供をさらってうんぬんかんぬんというのは、日本でもそうでしょうけど、何百年や千年やそれ以上の昔はあぶれ者ならず者の夜盗やなんかが群れをなして住み着いていたということなんですね。性倫理もおざなりというよりは倫理なんて発想すらなく欲望のおもむくままに女が子を孕んで、あの時代に人口が増えかつ何の科学的技術も無いとなると盗賊をやるしか生命活動を維持する方法が無かった上に、当然ろくに教育なんか受けてませんから食欲も性欲も睡眠欲もおもむくまま、ということに相成ってしまいます。ネットで見られる女性を道具にしたおぞましいものは、そういった連中の本質が昔から何も変わっているわけでなくそこらへんをプラプラしている男の頭の中にはそういうものがまだ残っていて、この時代になってそれが何処かの特定のサーバコンピュータ上で視聴覚情報として存在している(行われている)というだけです。
吸血鬼とかも同じであって、吸血鬼伝説はルーマニアのBrasov(ブラショフ)という街の近くにあるBran城の城主だったヴラド・ツェペシュという人物をモデルに19世紀末アイルランドのBram Stokerという小説家が「吸血鬼ドラキュラ」という小説で初めてドラキュラのモデルを作り上げたものです。このモデルになった人、そうとう危ない変態魔王さんだったみたいです。ちなみに作者の名前はストーカーさんですけど。それ以前にも女性吸血鬼を描いた「吸血鬼カーミラ」というものがあったみたいですけど、独特な悲劇的好色な感じが。悲しい、悲恋の物語とかだと泣けます。このブラショフという街周辺のルーマニア中央部一帯はTransilvania(トランシルヴァニア)と呼ばれ、日本語だと「森の彼方の国」という意味だそうです。森の中にはヒトではあるが化け物たる野人どもが住んでいて、その「森」を超越したところはそうとうヤバいことになっていると。光の当たらない「森」というものが人間の脳内の表象であるとかだと恐ろしげです。
このブラショフという街はドイツ系のSachsen(ザクセン人)が造った街で、ここら一帯では歴史上拠点的な重要さを持っていて、例えばルーマニアは第一次大戦後この地を領土に併合してバルカン半島最大の強国となりました。フランスは恋愛やセックスお盛んみたいなイメージがベタなものとしてありますけど、ドイツというかドイツ語圏はおそらく女性が社会的に蹂躙されている度合いが強かったんではないかと。私はブラショフへは行ったことがあるんですけど残念ながらこのドラキュラのブラン城は訪れませんでした、が、それでもちょっとした独特な湿った閉鎖性みたいなものは感じました。ラテン系統だということもあるのか大学生のお兄さんがルーマニア語とフランス語しか解せずに英語が全く通じないとか、国内第二都市の駅前のバスターミナルでわずかなお金をねだる物乞いの悲しげな少女が居たりだとか。
私SSは犬歯が異常に尖っていて口を開けて笑うとヴァンパイアのようになります。変に削って治療しはしません、それが私に課された健常な身体感覚を常時培い続けるためのものなので。親知らずが生えて痛みのあまり歯医者へ駆け込んで抜歯してもらった時にそこの歯医者さんが言ってましたけど、本来的にはこういったものは抜かない手を加えないという方が良いそうです。
現代のマンガでも時々アブないのがあったりしますし、ヴァンパイアも水木しげるさんが描くような妖怪だとかもそうですけど、お化けだとかの類は全て人外と化したヒトによる強姦と殺人のお話です。ヒト科の哺乳類が生物学的な特質上同じヒト科の哺乳類の血液を栄養源として求め欲するということはないです。「血を啜る」ということが如何なることか、ということを文学的に読み解くとそこに真実に根ざした事実が見えてきたりします。「処女の血が欲しい」とかいうのは思い切りそのまんまです、純潔な乙女と交わりたいということです。血というのは人間を人間たらしめているところの赤であって、おそらくドイツ語で強引に表すとMenschlnとかになります。愚行を「血に溺れる」と言うのは、人間として(の愚かさが)イき過ぎちゃってるということです。「悪意は何処にも無い、血の色は赤い」という詞(詩)を書いた人の込めた意味があるとするとおそらくそういう意味です。とある人物の遺伝的要素を集約的に形容する時に「血か……」といった表現に文学的には為るといったことだとか、または生まれたての胎児を「赤ちゃん」と呼ぶのは、その産物であるからということです。昔ながらのちょっとクサい言い方だと「愛の結晶」だとか。これをクサいという空気にて読んでしまうことは盲目に繋がっている証であって非常にまずいですけど。
残念なことにまだまだ現実世界で社会的にも生物学的にも優位に立っているのは男性なんで、その男性の大方が前の記事で書いたような自分や自分の家族だけよければいいという男独自の生殖機能にまつわるエゴに頭を占領されているような人間であるという社会だと、つまるところ悪党に都合のいい社会が出来上がってしまうということになるんですね。こういった人間の行いが間違っているというのは道理であって常識的に考えても分かることですし、こういったことは先の記事でも書いたように経済学で数学を使って分析し説明出来ます。
「精神病患者それも統合失調症患者をひたすら演じている。敢えて病名を付けるのだとしたら演技性人格障害。しかし只の健常者が演技を行っているのに過ぎないのであって、演技性人格障害という病名にて診断を下すことはできない。強引に形容するならば愉快犯的であるとでもいったもの。しかし愉快犯というのは現代で言えばそれこそネットの掲示板ににひたすら書き込んでレスポンスを待っているような連中のことを言うのであって、これもやはり正しくない。だからつまり健常者がひたすら分裂病者であることを演じているという事としてしか言い表すことができない。……弱小な人間に統合失調症のレッテルを貼って雑巾のように扱うのが許せないんだろうね。正義感の塊。キリスト教的と言えばキリスト教的。」
という私が書いたこの小話にはアニムスを持つ女性性のなんたるかがよく表れてます。前に「キリスト教は救いを求める女に崇拝される男の宗教」と書きましたけど、やはりそれを現実において構成しているのは女性であるヒトや救いを求める女性たるものが多いということです。で、そのキリスト教国家が最もその社会構成的な観点からして合理的であり最強なわけです。イスラム教圏の文化については私はほとんど知らないので何も言えないです。日本?仏教の価値意識すら分かってない最弱の馬鹿国家です。私はトルコで若者に"Are you Buddhist?"と聞かれましたけど、とてもではないが自分が仏教徒であり日本は仏教徒の国であると自信を持って答えることはできませんでした。神道についても日本人はほとんど何も知ってません。
……ここで書いたのは、人間関係を工学化してヒトという生き物においてその先にある異性間の性愛を念頭においた場合のお話です。それ以外の一般的な人間関係においてこういったセックスありきの問題意識で対処すると必ず失敗しますのであしからず。
「性」と「生」は真逆です。人間の肉体は、死を志向する「性」で出来てます。
femme fatale.
女性にまつわる不快な記憶といえばいくつもあるんですけど、私は大学の時にチェーンの餃子屋で二、三回アルバイトをした(させてもらった)ことがあって、その時に仕事が終わって着替え室へ入って私服に着替えようとしたらば、先に入って着替えていた自分と同じく入ったばかりの女がこちらをしきりに見ながらベタなドラマの頭の悪い俳優の演技の如く携帯電話で何か必死に話してるんですね。発していたセリフは「切らないで、切らないで」とかです。その瞬間「ああ、」と思って私は込み上げる胃のムカつきと極度のウザさを我慢しながら普通にサッと着替えてワザと大きい声で「お疲れです。」と言って退室したんですけど、女を求めない男に対してこういった攻撃を女というのは行っていくものなんだな、と私はそこで彼女らの異常性を感じてますます女には近寄らなくなりました。しかもこの女は、それの一、二時間前にまかないの食事を私と一緒にその同じ部屋にてテレビを見てしゃべりながら取ったばかりであって、それが急激にああいった中学生レベルの分かりやす過ぎるおそらくは貶めもしくは嫌がらせの行為をやらかしちゃうということなんで、まあ普通の人だったらばこの女従業員とそれを雇っているこの飲食店に疑いと軽蔑の目を向けます。ちなみに私SSもこの点に関しては普通の人です。もちろん私はこの時を最後にサッサとこの店のアルバイトは辞めました。
他には、とある場所で私が長い時間の徒歩の疲れを癒そうとジュースを買い求めるその品目をどれにしようかと選ぶのに迷っていたら、バイトかなにかの旗持ちの若い女がその自販機の真上2~3mの位置にあった階段の途中の踊り場のようなところで旗立て作業を中断してこちらをしかめ面で見ながらスタンバっていたということがあったりもしました。私はジュースを買って栓を開けてゴクゴクと飲んだ後でそれに気付いて「ああ、」と思いました。テメーのパンツなんか見たくねーよバカ女、というわけであって、勘違われる側としては非常に不快で迷惑です。女というのはこうやって気に入らない男を悪人に仕立て上げてゆくというものなのであろう、ということであって、やっぱり本人たちも男性に対して気持ちの悪い思いをして間違えた方向性で警戒心が強くなっているところのブサイクな不美人な女性にコレが多いです。
あと最近の例だと、今通っているN口クリニックにて半年くらい前の初回の診療の時に精神科医の診療の前に心理士の強制的なカウンセリングを受けさせられるということがあったんですけど、このN和という名札を付けたおそらくは臨床心理士がカウンセリングの後に何故かバツの悪そうな顔で私を診療室へ招きいれ、そして精神科医のk子kurseマ医師がそれに合わせて何故か必死で決まりの悪そうな顔をしている、というものがありました。これについては実のところ精神科クリニックにおけるプログラムされた来院者に対するお決まりの加害妄想の煽りというものです。高校生レベルですけど。
別にいい男でもない下手をすれば醜男が女を求めないとなると一部の不美人だったりする女性はこういった先制攻撃を仕掛けてくるんですね。私は父方の叔母がこういった人間で子供の頃からソレを視界に入れられるだけで不快感満面なんですけど、こういったものの中でも極めて下俗悪で低レベルなものであると女を求めない男に対してそれだけで同性愛者のホモであるとか。私は若い頃思春期の頃からそもそも女性に近寄るまいとしていたのであって、それでしてこういったことをされたというわけであってますます女性に対する不信感が募りました。そりゃ私も自分が好きな女に好かれたいというのはありますけど、女なら誰でもよいというわけではないので。
女は罪深い生き物だとかみだらな生き物だとかいった価値意識が昔から特にキリスト教圏ではありますけど、簡単に言うと女は肉の存在上は罪であって抱く意志は賢いということです。男は逆であってその意志が罪深いということです、前の記事で書いたように女と交わりたいというところにそのおそらくは集約されたエゴを持つので。animusを持つ女はその抱く意志においては虚無から生まれたものであると自らを自覚しそして全てを虚無にしようと少なくとも意志はするものなのかもしれないです、だから意思の表象上はイケナイことを拒むと。animaを持つ男は逆に生み出してしまうということであって、だから意思の表象上はイケナイことの為に全てをささげると。そしてだから行動の表象上女は男を馬鹿だと言う。アニマは肉の穢れ、アニムスはニヒル。
性愛に限った問題ですけど、男性が女性に神秘性を感じるのは、やはり根源的にはニヒルであって正体不明なものでるから(犯してモノにしたい)という発想から来てます。知らないものはさっさと自己内で情報として消化してしまいたいということであって、私はあまりこの言い方好きではないですけど、「モノにする」というのはそういう意味合いです。これは女性性たるアニマな発想です、外部性の内部化とか。フランス語でfemme-objetという「物としての女性」「主体として扱われない女」という意味の言葉があります、他にもちょっと忘れましたけど日本語で「永遠の被害者」という意味を表す慣用句かなにかがありました。これが危険な方向へ高じると、「女は何を考えているか分からん」ということになって、特定の女の人に危害を加えたり蹂躙したりということになってしまいます。
女性は生まれながらにしておそらく男性には分からないプレッシャーを感じてます。最後に行き着くところは女か男かというところしかないので、女性はおそらく特定一個人の男性に愛されるというのでなければ真の満足を得られないというか下手をすれば生まれなきゃよかったということになってしまうっぽいです。精神疾患を抱えた人間であってもこういう感慨を抱くことが多いですけど、基本的に精神の病はやはり女性のものです。その先がどうなるものなのかも分からずに女を強姦する男とかは陰茎切り落としてラーメンの具にしたろかと思いますけど。女性で男性を犯してしまう悲しい女の人には奇妙に愛情を覚えるんですけど。
女性が強姦される苦しみというのは、男性における例えば黒人の兄ちゃんに一発ケツを掘られるとかいうものとは比較になりません。おそらく男性の場合における陰茎と睾丸を切除されるというのと同じものだと考えるのが妥当です。宦官です。中年かそれ以上の年齢の男性でインポテンツになってしまって陰茎が萎縮した状態で保たれてしまっているという人も居ますけど、これがおそらく近いものであって、そうとう身体的に苦しい状態です。
女性は女性で存在がエゴイスティックなので、男性の生殖機能にまつわる唯一のエゴについてもちゃんと理解はしてくれるというわけです。しかしだからこそ女性は「私でいいの?」というセリフを吐くというわけであって、飢えた最中の男はよかですというわけで事後にそれとは別の女性にたかったりすると「私のことは遊びだったのね」と言われ恨まれるというわけです、たぶん。
森にはおばけが住んでいて女子供をさらってうんぬんかんぬんというのは、日本でもそうでしょうけど、何百年や千年やそれ以上の昔はあぶれ者ならず者の夜盗やなんかが群れをなして住み着いていたということなんですね。性倫理もおざなりというよりは倫理なんて発想すらなく欲望のおもむくままに女が子を孕んで、あの時代に人口が増えかつ何の科学的技術も無いとなると盗賊をやるしか生命活動を維持する方法が無かった上に、当然ろくに教育なんか受けてませんから食欲も性欲も睡眠欲もおもむくまま、ということに相成ってしまいます。ネットで見られる女性を道具にしたおぞましいものは、そういった連中の本質が昔から何も変わっているわけでなくそこらへんをプラプラしている男の頭の中にはそういうものがまだ残っていて、この時代になってそれが何処かの特定のサーバコンピュータ上で視聴覚情報として存在している(行われている)というだけです。
吸血鬼とかも同じであって、吸血鬼伝説はルーマニアのBrasov(ブラショフ)という街の近くにあるBran城の城主だったヴラド・ツェペシュという人物をモデルに19世紀末アイルランドのBram Stokerという小説家が「吸血鬼ドラキュラ」という小説で初めてドラキュラのモデルを作り上げたものです。このモデルになった人、そうとう危ない変態魔王さんだったみたいです。ちなみに作者の名前はストーカーさんですけど。それ以前にも女性吸血鬼を描いた「吸血鬼カーミラ」というものがあったみたいですけど、独特な悲劇的好色な感じが。悲しい、悲恋の物語とかだと泣けます。このブラショフという街周辺のルーマニア中央部一帯はTransilvania(トランシルヴァニア)と呼ばれ、日本語だと「森の彼方の国」という意味だそうです。森の中にはヒトではあるが化け物たる野人どもが住んでいて、その「森」を超越したところはそうとうヤバいことになっていると。光の当たらない「森」というものが人間の脳内の表象であるとかだと恐ろしげです。
このブラショフという街はドイツ系のSachsen(ザクセン人)が造った街で、ここら一帯では歴史上拠点的な重要さを持っていて、例えばルーマニアは第一次大戦後この地を領土に併合してバルカン半島最大の強国となりました。フランスは恋愛やセックスお盛んみたいなイメージがベタなものとしてありますけど、ドイツというかドイツ語圏はおそらく女性が社会的に蹂躙されている度合いが強かったんではないかと。私はブラショフへは行ったことがあるんですけど残念ながらこのドラキュラのブラン城は訪れませんでした、が、それでもちょっとした独特な湿った閉鎖性みたいなものは感じました。ラテン系統だということもあるのか大学生のお兄さんがルーマニア語とフランス語しか解せずに英語が全く通じないとか、国内第二都市の駅前のバスターミナルでわずかなお金をねだる物乞いの悲しげな少女が居たりだとか。
私SSは犬歯が異常に尖っていて口を開けて笑うとヴァンパイアのようになります。変に削って治療しはしません、それが私に課された健常な身体感覚を常時培い続けるためのものなので。親知らずが生えて痛みのあまり歯医者へ駆け込んで抜歯してもらった時にそこの歯医者さんが言ってましたけど、本来的にはこういったものは抜かない手を加えないという方が良いそうです。
現代のマンガでも時々アブないのがあったりしますし、ヴァンパイアも水木しげるさんが描くような妖怪だとかもそうですけど、お化けだとかの類は全て人外と化したヒトによる強姦と殺人のお話です。ヒト科の哺乳類が生物学的な特質上同じヒト科の哺乳類の血液を栄養源として求め欲するということはないです。「血を啜る」ということが如何なることか、ということを文学的に読み解くとそこに真実に根ざした事実が見えてきたりします。「処女の血が欲しい」とかいうのは思い切りそのまんまです、純潔な乙女と交わりたいということです。血というのは人間を人間たらしめているところの赤であって、おそらくドイツ語で強引に表すとMenschlnとかになります。愚行を「血に溺れる」と言うのは、人間として(の愚かさが)イき過ぎちゃってるということです。「悪意は何処にも無い、血の色は赤い」という詞(詩)を書いた人の込めた意味があるとするとおそらくそういう意味です。とある人物の遺伝的要素を集約的に形容する時に「血か……」といった表現に文学的には為るといったことだとか、または生まれたての胎児を「赤ちゃん」と呼ぶのは、その産物であるからということです。昔ながらのちょっとクサい言い方だと「愛の結晶」だとか。これをクサいという空気にて読んでしまうことは盲目に繋がっている証であって非常にまずいですけど。
残念なことにまだまだ現実世界で社会的にも生物学的にも優位に立っているのは男性なんで、その男性の大方が前の記事で書いたような自分や自分の家族だけよければいいという男独自の生殖機能にまつわるエゴに頭を占領されているような人間であるという社会だと、つまるところ悪党に都合のいい社会が出来上がってしまうということになるんですね。こういった人間の行いが間違っているというのは道理であって常識的に考えても分かることですし、こういったことは先の記事でも書いたように経済学で数学を使って分析し説明出来ます。
「精神病患者それも統合失調症患者をひたすら演じている。敢えて病名を付けるのだとしたら演技性人格障害。しかし只の健常者が演技を行っているのに過ぎないのであって、演技性人格障害という病名にて診断を下すことはできない。強引に形容するならば愉快犯的であるとでもいったもの。しかし愉快犯というのは現代で言えばそれこそネットの掲示板ににひたすら書き込んでレスポンスを待っているような連中のことを言うのであって、これもやはり正しくない。だからつまり健常者がひたすら分裂病者であることを演じているという事としてしか言い表すことができない。……弱小な人間に統合失調症のレッテルを貼って雑巾のように扱うのが許せないんだろうね。正義感の塊。キリスト教的と言えばキリスト教的。」
という私が書いたこの小話にはアニムスを持つ女性性のなんたるかがよく表れてます。前に「キリスト教は救いを求める女に崇拝される男の宗教」と書きましたけど、やはりそれを現実において構成しているのは女性であるヒトや救いを求める女性たるものが多いということです。で、そのキリスト教国家が最もその社会構成的な観点からして合理的であり最強なわけです。イスラム教圏の文化については私はほとんど知らないので何も言えないです。日本?仏教の価値意識すら分かってない最弱の馬鹿国家です。私はトルコで若者に"Are you Buddhist?"と聞かれましたけど、とてもではないが自分が仏教徒であり日本は仏教徒の国であると自信を持って答えることはできませんでした。神道についても日本人はほとんど何も知ってません。
……ここで書いたのは、人間関係を工学化してヒトという生き物においてその先にある異性間の性愛を念頭においた場合のお話です。それ以外の一般的な人間関係においてこういったセックスありきの問題意識で対処すると必ず失敗しますのであしからず。
「性」と「生」は真逆です。人間の肉体は、死を志向する「性」で出来てます。