忍者ブログ
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

Shi San no Te
 手。
 デスペナルティー、デスハンド。




 いわゆる青年ヘーゲル学派(ヘーゲル左派)が愚かしいのは、自らも人間であるにもかかわらず人間の限界を自覚せずに表象なるものに鉄槌をくらわそうと、また自らも表象的なる「思想」を喧伝していたところにあるんですね。ヘーゲルを批判しながらもやっていることはヘーゲル先生と同じだったということです。
 これは当然に現代でも同じことですけど、リベンジという発想がそもそもリベンジなものだということです。リベンジされる側もリベンジする側もどちらも馬鹿でミクロ経済的なリベンジゴッコを行っているだけです。こういった単純なことが不良人間には分からない、もしくは何らかのこだわりによって理解しようとしないということです。つまり思想的にヘーゲル先生的なものに反発しようというのなら、ナメ腐った奴を片っ端から並べて直立させて運動神経のいい人間がその左頬を拳で殴っていけばいいということです。が、そんなものは単なる暴力でしかありません。


「―前略―それまで絶対精神を食い物にして生きてきたさまざまな哲学的産業家たちが、今やこの新しい化合物にとびついた。誰もが自分の手に入った部分の切り売りに、精一杯商売熱心に、また当然必死になって、いそしんだ。このことは、競争なしに済むはずがなかった。競争は、初めはかなり市民的に堅実に行われていたが、やがてドイツの市場のが供給過剰となり、どんなに努力しても世界市場で商品が何の反響も呼ばなくなると、商売はいつものドイツ流儀に則って、粗製乱造と仮想生産、品質の低下、原料のごまかし、空取引、空手形の使用、そして実際の基礎をまったくもたない信用制度によって、不堅実にされた。競争は戦争に至った。この戦争が、今や世界史的な激変として、赫々たる成果と功績を生み出したものとして、われわれの前に、潤色され描き出されているのである。」

 これはマルクス・エンゲルス著の"DIE DEUTSCHE IDEOLOGIE"(「ドイツ・イデオロギー」)という著作からの引用です。こういった哲学者や思想家によく見られるんですけど、どの人間も物の見方が非常に一面的なんですね。戦争に至る原因となったのは競争原理だけではないです。また競争原理だけでは戦争には至りません。それは技術革新や資本蓄積の元ともなります。
 ちなみにこれはマルクスかエンゲルスがヘーゲル左派とはこういうものですよという悪い見本としてそれを説明したものです。以下続き。

「こういう哲学的大言壮語――これを布告することが、お上品なドイツ市民の胸にさえ慈悲深い国民感情を奮い起こさせるのだが――を、また、こうした青年ヘーゲル派運動総体の狭量さ、および地方的偏狭さと貧弱な実を明瞭に認識するためには、それらをいったんドイツの外なる見地から眺めてみることが必要である。」

 しかしこれもまたマルクスとエンゲルスの事象に対する一面性を表しているものに過ぎないです。ヘーゲルの様に歴史の生成過程を鑑みてみればいいんですね。


「―前略―感性的世界の直観の場合、必然的に彼(人間)は、彼の意識や感情と矛盾する事物にぶつかる。これらの事物は、彼にとって前提をなす感性的世界のあらゆる部分の、とりわけ人間と自然との調和をかき乱す。こういうしろものを片付けるために、彼は、今度は二重の直観に逃げ場を求めざるをえない。―後略―」

「フランス人やイギリス人もまた、この事実といわゆる歴史との連関をせいぜい一面的にしか――とりわけ、彼らが政治的イデオロギーにとらわれていた限りでは――捉えなかったとはいえ、しかし、彼らはともかく歴史記述に唯物論的な土台を与えようとする最初の試みを行った。というのは、彼らが市民社会の歴史、商業と工業の歴史を始めて書いたからである。」

 ということです。ヘーゲル先生も同じような内容を言っているように、そこへ到達した(かの様にみえる)ならば、嘘と真実のひたすらな邂逅とその矛盾に苦しむという運命が待っているだけであり、それが人間の限界であり人間の人間たる所以だということです。


「そもそもの初めからすでに、欲求および生産の様式によって条件づけられ、人間たちそのものと同時に成立している、人間相互間の唯物論的な連関が見られる。」

 この「唯物論的な連関」を人間社会におけるコミュニケーションツールとしての母国語や産業における具体的な生産力とやらに求めている時点でマルクス・エンゲルスは間違えてます。これを記述するには数学しかありません。数学が役に立たないとか言ってる人間がたまに居ますけど、というのであれば彼らはPCやネットを使うにあたって自分の行っていることについてどう考えてるんですかね。


「―前略―すなわち、かの大評判の『人間と自然との統一』なるものは、産業の場面で昔から厳存しており、産業の発展の肯定に応じて時代ごとに別様な在り方で厳存してきたということ、同じくまた人間と自然との『闘争』も、人間の生産力が相応の土台の上で発展を遂げるまでは現存し続けるということ、これの洞見である。―後略―」

 これには非常にマルクス・エンゲルスのマスコミ性が表れてます。というのは、これは陳腐にも日本のマスコミ的に「自称の社会派」な言説だということです。これが正しいとすると人間の人間性が産業の場面とやらでは完全に排されているということになるんで、ロボットのように働けどころかロボットのようになれ・ロボット万歳と言っているんですね、この御仁たちは。人間の人間性を排しているのはマクロではなくてマルクス・エンゲルスのようなミクロ経済的な価値意識を持つ連中です(というかマクロというのは人間にはそれを数学的に認識することは不可能です)。ドイツというのはその言語からしてこの傾向の強い社会ですけど、この流れの頂点を極めたのがヒットラーです。だからマルクス・エンゲルスは多少ヒットラー的なことも言っているということです。で、実はヒットラーはそれなりにまともなことは言ってます、「わが闘争」を読む限りでは、ユダヤ人排斥の部分を除いて。最悪なのはナチスなのであってヒットラーではないです。もちろん日本の社会にも言えることですけど、ここのところを見誤るとまたバカなことになります。



 戦時中の「ぜいたくは敵だ」という標語は、日本語の曖昧なニュアンスで「ぜいたくをするのは止めよう」とか「ぜいたくをするのを止めてお国のために尽くそう」といった意味合いではなくて、ドイツ語的に"ぜいたく ist 敵."というのが理に適っているのであって、つまりはぜいたくをすると病気(病人)になるということです。ドイツ語だとkrankは形容詞で「病気の~」という意味であり、die/der Krankeは名詞で「病人」という意味です。「病気」という名詞はdie Krankheitであって、人を指してdie/der Krankheitと呼ぶことはありません。これは日本語でも同じです。人間は病気にかかって病人になることがあっても病気そのものになることはないということです。
 たいていの医者に「こういった症状がある」ではなく「何々(の検査)をしてくれ」と言うと嫌がられたり渋い顔をされたりします。つまりまともな医者というのはそのあたりのことをよく分かっていて、病気というものは如何なるものであるか、そしてそれを治すにはどうすればよいかを知っているということです。しかし中には来院者を食い物にしようとする藪医者も居ます。

 「馬鹿は風邪を引かない」という言説がありますけど、これはこの言葉通りの内容ではなくて、「馬鹿は風邪をひいても自分が風邪をひいていることを自覚できない」というのが正しいです。



 古風な言い方をするなら、人間はその魂が浄化されるまで煉獄を歩きまわってシバいてもらうべきであるということです。魂というのはおそらく「人間存在の中心にあるもの、そこから肉体に様々な現象として表れる(現れる)もの」と昔は考えられてました。ヤコブ・ベーメというシャーマンみたいな人が「肉体にはそれを動かす内部の力の刻印があらわれる」と言い残してます。それは例えば「食物○○(名詞)を食す」等のつまるところ名詞的というか文学的な物の考え方に基づくものであって、魂という架空の「|∞|/0の因果関係」なものでも何でもなくて肉体的な健康の問題であり、それは必然的に精神の健康にもつながるというわけです。

 女性はこのシバきがストレスになります。女は肉体的にそういう方向へ傾くように出来てます。女性に暴力をふるってはいけないというのはこういうことです。男性はよほど女性的な人や病気の人でない限りはこのシバきがいい方向へ働きます。しかしかといってそんな暴力が良いわけもなく、簡単なトレーニングでもいい効果があらわれますし最悪の場合でも現代では抗精神病薬を使用するという方法があります。

 中島義道さんも本で自分の母親のことを書いてますけど、自分の子供を「猫かわいがり」する女は子供をダメにします。子供がある程度成長すると放置するどころか虐待を始めます。こういった女は全て宮崎勤連続幼女誘拐殺人犯と同じです。自分たちが変態であるという自覚がありません。要するに、生活環境を始めとした社会環境によって自分が腐ったのだということを認めると、自分があまりに憐れになりその憐れさに耐えられないから、こういった人間は遺伝的要因に全ての拠を求めるというわけです。つまり「先天的要因によって全ては決まっているから自分が何をしても影響は無い」という甘えのもと自分より弱い対象を虐待します。よってこういった不良人間が親になると、自分の子供や近しい人間を自分がその様態を見て満足が行くまで貶めてそれだけでは飽き足らず眺めて楽しむということを行うわけです。最悪です。

 人間ストレスが溜まるとまず真っ先にそれが表れるのは記憶力の悪さです。もの覚えが悪くなります。こういったものは能力でも性格とかいった根拠の無いものでも何でもなくて、人間の脳のmemoryの問題です。特に対人関係でストレスが溜まると、そのストレスを引き起こした具体的記憶にまつわってそれが忘れられなくなるどころかその記憶からさらにストレスが引き起こされて妄念だらけになっていきます。これが極端に高じたのが統合失調症(精神分裂病)です。

 いくつか前のAconitum napellusという記事で経験した状況を具体的に記述しない方が良いとか書いたんですけど、対人の場で悪口として言うのが良くないのであって、書くのは良さげです。今は昔と違ってPCのワープロ機能があるんで、ワープロソフトでもNOTEPAD.EXEでも使ってどんどん他人について不快な感想でも具体的行動の記録でも何でも記述していくというのはストレスの解消には効率的な良い方法です。精神医療の場でこれが行われることの何が問題であるかというと、それを記述するのは精神科医やそれに準ずるケースワーカーのような人間であって患者本人ではないということなんですね。つまり患者はこれを自称治療者によって行われることで被害妄想がより掻き立てられて病状が悪化します。もちろんそんなことは当然自覚した上で一部の悪辣な精神科医を始めとした治療者たちはこういったことを患者に対して行います。これの解決策は、患者本人が他人についてのそういった記述を行うことであり、他人が患者本人についてのそういった記述を行うことではありません。だから自分についての記述を示して性格判断だとか何だとかの名の下にそれをふるいにかけて自分の行動に在りもしないテーゼを与えるというのはこれと同じく最悪な行為です。なぜ最悪かというと、被害妄想のタネになるという側面においても、また存在しないテーゼの新興宗教的な「定説性」に拍車をかけるという側面においてもです。要するに精神科医の一部には自分は金と自己満足を得ながら被治療者を悪化させるという詐欺商売や悪徳商法どころか悪業としか言い様のないことを行っている豚が居るということです。

 誤解の無い様に言っておきますけど、精神科医の先生の中にはまともな人間もちゃんと居るので、自分に異常があると思ったら精神科を受診した方が良いです。



 本来的には財の性質的にその市場が独占・寡占の産業とはなり得ないものでも利潤を無視して故意に価格設定者を行うことで、社会的に死荷重が生み出されます。例えば近年観察されるもので例を挙げると、家具や衣類等で素材の質によってではなく「形状を」不良なものにすることで身体的な物理的な側面からも死荷重を生み出しうるということです。前の記事で説明した粗悪な音楽CDの録音のされ方にしてもそうです。つまり「粗悪な」財と「優良な」財に故意に分けることで、社会に死荷重を与えることができてしまうということです。数年前にマスコミが騒いでいた二極化というのはこれのことでありまた同時にこれの結果です。しかし総的な利潤を無視したら企業を運営することはできないので、つまり商品の売り上げに関する短期的な利潤は無視してその製品供給者はその代わりに何らかの共益を得る(得られる)ことになっているということです。つまり価格が調整された結果そうなったということではなくて、社会に対する不満を抱えた低所得者階層を意図的に作る為にそういったことを一部の反社会的な連中が行っていたということです。価格が一般的な日本製のそれに比べて数分の一~数十分の一の東南アジア製や中国製の家具なんて値段云々ではなくて物理的に使い勝手が悪過ぎて誰も買いません。本来的に現在の価格よりも低い価格で販売されていた多くの財は、アジア製の低価格な財の出現により「一見して自然な価格調整メカニズムのもとそういった価格が設定されたかの様な」価格に設定されました。
 つまりはまあ不幸な他人を見て蜜の味を覚える、蜜の味を覚えるために不幸な他人をわざわざ故意に作り出す、貴族というよりは貴族志向の愚民みたいな女性性と子供性を極めたクズが居るということです。現代日本のマスコミというのはこういったクズ共の集合体です。



 新聞は全ての面を社会面にすればいいんですね。三十面くらいあるのをすべて何々の事件がありましたという報道で埋め尽くせばいいんです。そうすればバカ売れです。あの社説なんかは内容が頭悪過ぎて書いてる人間がかわいそうになってきます。あんなもんいらないどころか無い方がいいです。



 ミクロ経済的価値意識は、文学的表現で言うところの「自分の影を見て踊る(追いかける)囚人」のそれに似ています。
PR
Schadenfreude
 ご苦労さん。




 最近私がやられているストーカーの中には、被害者を装うというものがあります。

 ストーカーの被害者xさんを仮定します。xさんは、とある特定の社会的に弱い人間たちの属性なるものが具体的に存在しそれが如何様なものであるかを、何故か何らかの手段によって何者かに知らしめられています。それが帽子を被っているという特徴であると仮定します。その属性をあらかじめ知らしめられているxさんは、ストーカーによってその「見せつけ」をひたすら行われるという攻撃をされます。そして半ば発狂状態のxさんはひたすら「帽子を被っている連中」に対して文句を言います。そうすると、「事実は帽子を被った連中にxさんが攻撃されているのに、まるでxさんが弱い人たちである帽子を被った連中を攻撃しているかのような錯覚を何度も連続してターゲット(xさん)に与え、『自分らが被害者でありxさんが加害者であり、それが自分たちがxさんに攻撃(仕返し)を行う口実として成立するかのように見せかける』、そしてxさんを攻撃する」ということをストーカーはxさんに対して行えてしまうんですね。

 ここでポイントとなるのは、抗精神病薬の被投薬や覚醒剤の使用によるそれのoverdoseですけど、私の場合は前者がキーとなってやられました。これは精神科医が処方する抗精神病薬に問題があるということではなくて、抗精神病薬というのはそういった薬物であり、一定長期間服薬してそしてだんだんと量を減らしていって服薬を止めた時点で初めて病気の完治である、というそういう薬です。当然ストーカーを行っているクズ共やそれとグルになっている悪質な精神科医に負の要因、問題点があります。

 例えば、私が図書館へ行くとkさん(仮名)という職員が居ます。まず私はkさんの悪口を(ワザと)自分のパソコンに書きました。そして一時間後くらいに図書館へ行きました。そうしたらkさんは受付で来訪者に対してまるで回りの人間に対して聞かせるように大きな声で「ええ~、そうですねぇ~(大声)↑」というセリフをワザとらしく吐いていました。もしこれがkさんの演技でありkさんが私がPC上で書いていたテキストを認知した上でのことなら、kさんはストーカーであり私の書いていることは何らかの形で知られているということです。もしこれがkさんの演技でないのならば、kさんは場の空気を読めないTPOをわきまえられない気狂いであり、ごめんなさい、ということです。その場合kさんの挙動に不審感を全く抱いていない受付への来訪者も同じく気狂いです。

 これがただの一回ならば私も普通の人と同じく何も思わないか何かあったのか程度にしか思わない、もしくは自分には関係無いだろうと考えますけど、この「自分に関係あるような何か」が数十回数百回と存在するんですね。つまりストーカーはなんらかのポイント・基点を作って被害者にストーキングの事実を知らしめるというところからストーキングによる加害を始めていきます。そのうち被害者はストーカーによる攻撃ではないものまでもそれだと思いだし、本来的には存在しないダメージを自ら受けるようになってしまいます。これは先の記事で説明した、自己が外部化され且つまた同時に世界が自己に内部化されるという通常では考えられない事態であり、「自分を読まれている」という妄念に取り付かれるようになりまた同時に自己以外の世界の事象を認知しそしてそれが自己内化されているので予測でき(ていると思い込んでい)るようになるということです。

 芥川龍之介の「歯車」という小説がありますけど、あそこで書かれているのはアレは幻覚でもお話でもなんでもなくて事実です。あれはほとんど芥川龍之介の自殺の手記として有名なものですけど、これは現代の精神医学の定義に照らし合わせればまったくの精神分裂病(統合失調症)です。おそらく芥川の場合は「彼の為に煉獄が形づくられている」という表現が適切ですけど、つまりはナメた奴に一発カマすとかシバくとかいったものではなくてこういった形で純粋な嫌がらせを行ってくるクズというのが現代の日本の社会にもまだ居るんです。

 身近な例で言うと、私の母親は自分の髪(極度に長いのですぐ分かる)を洗面所やトイレや私の部屋に巻き散らかすということのもっとタチの悪い一本二本髪の毛を置いていくというやり方で嫌がらせをしてくるんですけど、こういったものがこのストーカーのやり方の典型的な見本というわけです。この女は私が子供の頃からひたすらこういった嫌がらせをジメジメグジグジと行う豚でした。ちなみにこの女はもう頭がボケてます。もともと嫉妬に狂った豚みたいな女で、頭も悪くてしかも馬鹿で愚かな人間でしたけど、とうとう完全にボケ始めました。パソコンのモニターやキーボードの上や後はゴミ箱とかにセロテープを貼ってバリアー(?)(笑)みたいなものを作ってるんですね。完全にキチがってます。

 これを被害者の「妄想だ」の一言で片付けられるのが「統合失調症であるというレッテルを貼る」という便利で便利で仕方のないツールなんですね。



 某巨大匿名掲示板群はアレはナチスです。というかアレがナチスの実態です。ここ一、二年でやっと少しだけマシになりました。ああいった馬鹿な無政府主義者が群れを為して徒党を組んでサークルを作ったのがナチスです。性(欲)風俗とサブカルチャーをその依存対象と機軸とした下劣と俗悪の極みです。あそこで小学生レベルの悪口や中学生レベルの下ネタを乱舞させ披露してくれたのは子供ではなくて30歳も過ぎたオッサンたちです。もちろん中には役に立つ情報もありました、が、某巨大匿名掲示板群はナチスのモデルとして実に分かりやすい例を示してくれました。
 関係無いですけど、去年の12月下旬か今年に入ってからかの読売新聞の朝刊で、「東電実質国有化」という見出しで一面に記事が出ていたんですけど、その実少し記事に読み入ってみれば「そういう方向で官公庁が試案を出し始めましたよ」という内容なんですね。だからこれは別に「実質」でも何でもなくてマスコミ新聞社の客の目を引きつけたいだけが為のいかがわしスポーツ新聞レベルの大嘘垂れ流しの宣伝見出しです。

 何年か前にあった秋葉原通り魔事件の加藤智大さんはこれらの典型的な被害者です。あの事件はもちろんこういった犯罪者集団にハメられて気が狂うまで嫌がらせをされて発狂して加害行為に及んでしまったケースです。加藤智大さんのケースではちゃんと警察へ行って警察官にきちんと事の事情を話せばよかったんです。
 ああいった連中というのは面白いことや媚びや誤魔化しによって釣ります。どんどんヤバい方向へ釣っていって、そしてヤバい行為に浸らせておいて、そしてある時突如ワッと本性をあらわします。その時点で本来的にはまったく真面目な人間である被害者はその時点で本格的にダマされていたことを知ります。それがこういったクズ共のやり口です。だからダメな奴は最初からダメなのであって、付き合ってはいけないということです。



 ネットを使うにあたってこれ見よがしに漢字名と顔写真をupしてる人間が居ますけど、アレは何を勘違いしてヤってるんですかね?そもそもテレビに出演している芸能人とかあとは市民活動家みたいな人で自分の写真と本名を名乗ってネットを使っている人も居ますけど、そうではないそれこそ某巨大匿名掲示板群関連みたいな連中がそういうことをやってるのを見ると犯罪者集団が何を勘違いして調子に乗ってるんだと考えさせられます。ネットでそんなことをやってもそれが本当(事実)である保障は何処にも無いんですけど?例えばネット上で「田中太郎」や「山田花子」という名前で顔写真までupしていても、それが本名である保障は何処にも無い上に、仮に本名だとしてもどこの田中さんや山田さんであるか関係無い他人には分からない上にその顔写真が本人の顔そのままのものである保障は何処にもないわけです。

 このブログを読んでる人間のうち99%は私が何処の誰だか分かってます、と言う時点でつまり私はそのことを自覚した上でこのブログの記事を書いています。私が自分の家族の悪業・悪行についてイタい記事を書いたのもその為です。これからもこういったことについてはもちろん書きます。



 現代日本にもまだこういったような、自分も含めて全ての人間にとって特にならない行いであるにもかかわらずそれを行うという、豚としか言い表せない人間が居るんです。「豚」「ブタ」というのは単なる小学生レベルのマンガ的・絵的な形容の悪口ではなくて、文学的というよりは文字的にそういった決まりきった形容表現なんですね。漢和辞典や国語辞典などの辞書を引いてみたり現実に豚という生き物がどういったものか観察してみることでこういった「知」的なことは理解できます。例えば、私も子供の頃から太っていてよくデブとかいってからかわれましたけど、なぜ太っている人間が悪口を言われるのか、ということは一考の価値があるということです。
 そしてこれは当然治ります。現代では抗精神病薬を使用するという効果的な方法があります。そうではなくても、太陽の光にあたる・野菜を多量に摂取するなど食生活をあらためる・運動をする・入浴をする、その他様々な方法があります。妥当性があるかどうかイマイチですけど、個人的には剃毛をするつまりムダ毛を剃るというのがオススメです。
Brahma
 善悪の彼岸。




 やはり見た目が悪い人間というのは中身まで悪いです。もうあからさまに肉体を病んでるんですね。これは先の記事で説明した通りです。女性はこういったことを非常に気にするんでちょっと言いづらいんですけど、見た目がブサイクな女というのは中身までブサイクです。見た目が気持ち悪い人間というのは自他両方向に向けて気持ち悪い思いをしているということです。オタク女を見れば一目瞭然です。美女が悪女でブサイクが善良で優しいというのはマンガやベタな安いドラマの世界だけです。間違いなく真逆です。だからオタクは絵の世界に美形キャラを描きます。そしてそれに慰めまでに悪属性を付与します。マンガやアニメというのはこの意味でも有害です。だから宮崎駿さんのアニメとかは最高にタチが悪いです。ああいった一見して健全なところでヒビを入れられてそこから人間悪化していきます。弱者共感というのは苦しんでいる弱者にうわべだけでしかない愛とやらを与えておいて、弱者をより弱くして苦しめる鬼畜の手です。こういったようなぬるま湯で弱者に一時的な快感を与えて共感とやらを買ってそして弱者を貶めて自分は都合のいい位置を確保してニヤニヤ笑っているような「優しい」鬼畜を見ると私は本当に呆れます。
 弱いだとか強いだとかなんだとか抽象的な物言いをするから分かりにくいのであって、要は病気になるということです、精神も肉体も。

 「人によって……(違う)」というのが連中のこの場合における逃げ口上です。だからこの(どの)視点においてもこういった連中は特徴ではなく「特長」と言いたがるというわけです。これもまたマザーコンプレックスそのものたる人間関係という虚構への逃避であり、問題解決を行わずに「人」へ逃げ込むことの典型的な例というわけです。「甘え」の極みです。これは個人主義でも何でもなく、日本人であって自称の個人主義者に過ぎないファシストが個人主義者を装っているだけです。非常にミクロ経済的であって、舐めてます。人間の体の構造は決まってますし、精神医学にもほとんどの精神疾患について具体的な判断基準は存在します。だから精神科医個々人の主観で「病気である」とか「病気でない」とか裁いてもらっては困るんですね。養老孟司さんという人はこういった主観的判断の「否!」さ加減、主観的判断の害悪についてひたすら訴えている人です、おそらく。つまり決まりごとというのは世界においてきちんと存在するということであり、ちなみに私はそう考えてます。精神科医の中には「人によってよかったりよくなかったりする」とかいうたわけたお戯れでのらりくらり逃げる人間が居ますけど、一体何を考えているのかまったく不明です。精神医療の場において完全にストーカーに手を貸しているどころかタグを組んでいるようなロクでもないのも居ます。精神科の診療室で患者の精神に悪影響なことをポロッポロポロッポロと平然とこぼすというハラスメントを平気で行うというロクでもないのも居ます。まあ小学生レベルの児戯をよくやるよとしか言い様が無いです。こういった人間はきちっと追及して具体的事実を明らかにしない限り患者は被害者であることからは抜け出せません。それにもかかわらず「科学的に解明・実証されていない」と言って逃げるのであればその医師はゴミクズなので、その治療を受けてはダメです。そういうどうしようもないのは、弱者共感という自分の(偽)善人性の立証にかまけてのらくらと自分は都合よくポジションを確保しながら「そうだねえ、こうだねえ」で行うべき治療やinformed concentは全くの度外視というありさまで、さあ患者がどうしようもなく再起不能になったらばこういった「甘い」人間がどういった態度を取るかというと、「起き上がれないお前はダメだ」というレッテルを貼るというご痴態なんですね。体のどこどこが悪いと言うと、何の具体的情報をも与えずにニヤニヤ笑っているという最悪な場合もあります。



 Janne Da Arcのsisterという曲がありますけど、あれは逆レイプの歌です。ストーカーによる加害行為というのはまさにこれなんですね。この曲の歌詞にはまさにそういったストーカー加害な発想が書いてあります。だから女は恐ろしいんです。

 音楽で何らかのパクリではない楽曲というのは存在しません。音楽理論はスジが決まってます。440HzのA音(ラの音)を基点(起点)として音が7音階で並んでいてそこから曲を作ります。だから「この曲なんとかの曲のパクりじゃん」というセリフ程ナンセンスなものは無いです。もちろん昔のEric Claptonみたいに本当にいい楽器を使って音で勝負する、音を聴かせるという人たちもいるでしょうけど、いくらガキ臭い低レベルなロック音楽とかでありがちなギターの断続的なコードワークがいいからといって、それも結局音(階)だからです。その誰それのミュージシャンが作っている音楽だからということではないです。Janne Da Arcの曲とかは小室哲哉さんみたいな頭の良い人が機械的に作るとああいう合理的な曲ができるんじゃねーのという分かりやすい見本です。音質どうこうよりも記号的に美しく並べられた音が心地良いんです。だからJanne Da Arcというバンドの曲はその意味で実にアンチビジュアル系であって、私は好きです。



 一つ前の記事で被害者を装うストーカーについて書きましたけど、ストーカーは自分たちが被害者には成り得ないと悟ると、今度はターゲットの被害者を無理やり何らかの加害者に仕立て上げようと試みます。

 そもそもストーカーの基本的なやり方としてあらかじめ何からの「秘密」を与えてそれを示唆することでストーキングを行っていくというものがあります。ストーカーとしてやりやすいのは、被害者に抽象的なテーゼを与えて、それを示唆していくというやり方が、最も効率的でかつ第三者・部外者には「秘密」が漏れないという加害者にとって都合の良い方法です。この場合、あまりにそれが抽象的に過ぎるので被害者はその当該の「秘密」を漏らし様が無い、被害を被害と訴え出ることができないということです。
 この「秘密」を人間関係における支配力として利用するというのは、70~80年前のドイツにおいてナチ政権下でヒムラーがSchutzstaffelの成員ををコントロールするのに積極的に用いた手段だったみたいです。「秘密」を漏らしたら殺すぞと脅して、実際殺す、というわけです。2012年時点での現代日本でこんなものが成り立つというのであれば、何故こんな何処かの強請り屋が警察に捕まらずに悪事を働けるんだという問題です。こんな有様では一般市民は健常に生きていけません。何でこんな連中が現代社会において調子に乗っていられるのか全く理解不能です。
 例えば私(被害者)の場合だと、いくつか前の記事で「昔いたギャル男(がどうこう)~」ということを書きました。そうしたら外に居て顔面が真っ黒のいかにもな感じのアレな若者(高校生?の征服を着た)が特定の子供じみた行為で私に対してアピールを行ってくるというものがあります。もちろんこのブログでの言及にあてつけたものですけど、私がこのブログを匿名性を排さずに行っている時にのみこのあてつけは被害者(私)にたいして効力を発揮します。が、残念ながら私は一つ前の記事で書いたようにこのブログを匿名でおこなっているつもりはないので、それをストーカーだと被害者(私)に見破られて終わり、というケースです。この場合は加害者側があてつけを第一義として行っているので無効で終わりということになりますけど、何度もこのブログの記事で説明しているように「被害者にそれがストーカーだと知らしめる為のストーカー行為」というのがストーカーの攻撃の基本スタンスなので(そもそもこれが「秘密」の「秘密」たるものであり)、一般的にはこういった行為も被害者がそれを認知している場合はそれだけで被害者に対する加害行為になり得てしまうということです。
 たしか小室哲哉さんのglobeの曲でこれについて歌っている曲がありました。

 「人間の性格はタイプA、タイプB、タイプC……タイプIに分類できます!」というバカな人間のたわ言の類ならば誰もそもそも相手にしないというので済みます。が、何らかの抽象的な命題を与えられるということでそれを仮に説明したくとも説明できないという状況が訪れる場合は別です。例えば、a=bであるという命題を被害者xさんは何らかの形で知った(知らしめられた)とします。そうするとストーカーは「『a=bである』という内容を何らかのダイレクトな意思伝達手段で伝えようと試みる」という形でストーキングを行うということです。さらにタチの悪いケースでは、例えば、「統合失調症の人間の特徴として、A→BでしかないものをB→Aであるとも思い込んでしまうということがあります」というテーゼを何者か(例えば精神科医)が与えるや否や「『B→Aである』という内容を何らかのダイレクトな意思伝達手段で伝えようと試みる」という形で加害者集団はストーカーを行うというものがあります。被害者は自分が統合失調症であることを医師から伝えられて知っているので、つまりそれがストーキングであると知るに至るというわけです。そもそも、この場合に「僕は→男だ」というものは成り立ちますが、「男は→僕だ」というものは成り立ちません。つまりこの命題は個々の具体的な場合に当てはめてその正当性が確認されます。が、しかし「『B→Aである』という内容を何らかのダイレクトな意思伝達手段で伝えられるべく試みられている」というとある具体的場合は「A→BでしかないものをB→Aであるとも思い込んでしまうということ」とは何の関係もなく、別の具体的な何かについて何らかの正当性が立証されるわけでも何でもありません。これは「統合失調症の人間の特徴として、A→BでしかないものをB→Aであるとも思い込んでしまう」ことを説明しているわけであって、命題の証となるものを示しているのではなく命題そのものを扱っている(ストーカーである自分らは貴様がそれを知ったことを知っているんだぞと被害者に対してアピールする)という場合です。で、精神科医は「それの認知自体が統合失調症という病気である」というテーゼをまたさらにそこで改めて構築して患者を攻撃します、そういう風に感じるのは患者が統合失調症という病気にかかっており抗精神病薬を服薬していないから、だと。ストーカーの攻撃の時点までなら別によかったわけです、知識に固有性は無く万国共通なので。ところが精神科医がそこでまたテーゼを構築するというやり方でミクロ経済的価値意識を被害者(患者)の中で再発・再燃させるんですね。あとは精神科医+ストーカーと、患者とのイタチごっこです。つまり、精神科医の中でもタチの悪い人間はストーカーとグルになって、そうやって「統合失調症というdie Krankheit」を形作っていきます。が、念のために何度も言いますけど、そもそも精神科医による患者に対するこの攻撃の第一義は患者に抗精神病薬を服薬させることにあります。精神科医の悪し良しが決まるのは患者に抗精神病薬を投薬してからその後のことなので、もし統合失調症の患者の人でこれを見る人が居たら、取りあえず薬は飲んでおいた方が良いです(さじ加減は自分で調整するしかないです)。商品名リスパダールは飲んだらダメです、商品名ジプレキサがおすすめです。

 関係ないですけど、これらストーカー被害において、a=bであるという命題云々をそれだと認識している地点ではまだ救いようがありますけど、「a=aという命題」が与えられる、aはaでしかないものをストーカーが示唆してくるとか思い始めたら重症です。つまりDinge an sichなところへイってしまっている状態です。これはストーカーによる直接的ではなくて間接的な被害です。何百回何千回とストーカー被害に遭っているうちに、a=a、つまりaをただそれだけで命題であると認識してしまう、Freund Heinという記事で書いたモノの全てが固有名詞化されるという完全に頭のおかしい状態になります。自己以外の世界の事象を認知しそしてそれが自己内化されているので予測でき(ていると思い込んでい)るようになっている状態であり、ヘーゲル的に考えれば(言えば)、結果としてその時に宗教や哲学が成立している(成立してしまっている)ということです。これは物理的関係もしくは数学的な物事の関係の人間関係化です。謂わばcommunicationizedみたいなもんです。ここから全ての負のスパイラルが始まります。最悪の状態です。これは私見ですけど、狂人や知能に障害を持った人たちで物の名前をやたらと声を張り上げて叫んでいる人たちが居ますけど、あの人たちの事象の認識世界はおそらくこういったものなのではないかと考えてます。子供の絵本とかの擬人化というのはこのあたりから来ている発想です、おそらく。事物がその事物のみで異常なまでにひたすらにゆらいでいるんですね、光(の波長)みたいに。



 「口ごたえするな」というのは、現代の日本語を使っている人間からするとどうしても単に「言い訳をするな」という意味に解釈してしまいがちですけど、これはおそらく「口(言葉)では答えずに体で答えろ」という意味っぽいです。というのは、変な意味ではなくて、肉体のバランス感覚をしっかりしろ、ということです。取りつくろいの言い訳というか、どうしても口先で説明しようとすると身体的に悪い方向へ傾くということなんですね。ヒトの胃の構造だとか、いわゆる「腑に落ちる」「腑に落ちない」という表現あたりがこういったことと関係ありそうです。極めて単純化して言えば口応えしていると病気になるということです。口先だけが達者な人間というのは実際心身弱かったりします。「病」は「気」からというか、「(悪)気は(肉体の)病から」ということであって、昔の人は広義の意味においても悪いものは肉体の不調から出るということをきちんと知っていたんではないかということです。
quitar de si
 己を風化させる。




 去年の大震災の時のたしか読売新聞だったと思いますけど、「全て消えた……」とかの見出しで瓦礫の山の写真が乗ってましたけど、被災者を救うどころか、マスコミはドキュメンタリー調のドラマ捏造のネタとして使ってるだけなんですね。これは日本のマスコミについてだけの話ではなくて被災者にいらなくなった衣服を送ろうとかなんとかいった自慰的な試みでもそうであって、あんなもの実態としてどうしようも扱い様が無くてそこらの空いた運動競技上か何かに山積みにされているというのがオチなんですね。私が見た写真では天井の無い場所に集められて置いてあるものでしたけど、雨や雪が降ったらどうするんですかね?被災地の人たちは処分にもの凄くいらない苦労をさせられる(た?)と思うんですけど。そのボランティアな活動に携わる人間は一時の自慰心にかられて具体的に何がどうなるかを考えていません。受け取る側のニーズをまったく無視しているだけではなくて、不要である場合の処理の方策云々については全く考えていないということです。これはあらゆる場面で非常に大多数の日本人に見られることです。



 私はいわゆるケースワーカーとやらに三、四回遭遇して全て嫌な目に合ってるんですけど、基本的に医師免許を持っている医師でもないのに患者の個人情報について突っ込んだことを訊ね過ぎるどころか、何を勘違いして図に乗ってるんだか分かりませんけど、明らかに精神疾患と関係の無いプライベートなことまで聞いてくるんですね。

 真面目というのは、いわゆる偉い人や学校の先生の言うことを鵜呑みにして言うことを聞く無知蒙昧な人間のことではありません。何がどうなっているかきちんと把握してその上で禍を巻き起こさないことができる優等生のことを言うのであって、若干語弊がありますけどつまりは数学的に物事に対処できる人間が真面目であって同時に賢いということです。だから残念なことに未だ現状では日本人というのはは全くもって真面目からはかけ離れたところにいます。合理性も無い場合が多々あります。
 先の記事でも説明した通り、公立小中学校の教師たちはだいたい5人に4人は馬鹿です。高等学校の教員だって危ないです。穢多というと現代ではちょっと分かりにくいですし、今は若い先生たちも居ますけど、バカでクズでどうしようもないようなのが平気ででもしかで学校の教師をやっちゃってる場合が多々あるんですね。おそらく田舎の方へ行けば行くほどこういったのが学校だけではなく社会のあらゆる所でのさばってます。で、そういった馬鹿の愚言にかかずりあって、そういったどうしようもない人間が作り出した「優等生なキャラ」「真面目なキャラ」を演じることが真面目であるということではありません。そういったのはそのどうしようもない人間(教師)と同じく馬鹿なだけです。例えば子供の場合だと、夏休みを迎えるにあたって「休み中も(いつも学校へ来ている間と同じく)有意義な時間を!」とかなんとか頭の足りない教師が言ったとします。それで休み中も昼間は部活動で学校へ行き毎日の決まりきった量の宿題を行い朝起きて夜寝る(のが有意義であると考えている)というのであれば、そんなものは有意義でも何でもなくただの頭の足りない唐変木です。夏休みでも何でも長いスパンの時間にはそれだけの時間にしかできないことがあるんですね。だから子供の夏休みの場合だったら、ニュージーランドやオーストラリアでもアメリカやイギリスでもショートステイに行くとか、そういった利用の仕方があるわけであって、それを指して「有意義である」と言うわけです。本当に日本人にはこれが多いんですけど、TPOをわきまえられないわきまえる能力が無いからそういった場面においてもあろうことか機会性を無視することを有意義であるとヌカす勘違いの馬鹿が居るということです。まるでナチスの機会主義ならぬ機械主義性のあらわれのようであって、これはこれで非常に愚かしいです。ちなみにヒットラーはユダヤ人と同じく嫉妬豚属性が非常に強いです。ヒットラーというのはこの能力の無さに打ちひしがれて、最後まで自分のこの無能さを自分で受け入れることができなかった馬鹿で弱い人間です。それをナチの幹部たちに上手く利用されてああいう悲惨なことになってしまったということです。

 日本人に似合わない金髪とかで奇怪な化け物みたいな顔に黒い色を塗ったガングロギャルだかなんだかの「外引きこもり」というのが昔ありましたけど、アレは度を越さなければ感覚としてはそれなりに健全です。というのは彼女らが抱いていたのは、ミクロな経済の逆関数というか、世界オタクみたいなものであって、それが仮に低レベルなものであったとしても社会的なものをハマりこむ対象として(無意識的に)選んでいたからということです。それに加えて実践的に社会を良くしていこうという不良少女が抱きがちではあるがしかしこの場合は健全であるプライドにつながりやすいからです。慰めの美形アイドルを求めるオタク女に比べればはるかに健全です。

 歴史上何故Judenと呼ばれていた人々が金貸し業しか営めなかったのか、またそのように法規づけられていたのか、ということに問題の本質があります。それは性悪説だとか他者にたいする不信感だとか色々な表現の仕方がありますけど、つまりはミクロ経済的価値意識でありマザーコンプレックスです。
 かく言う私も三十年間Judenとして生きてきた人間です。というかJudenであることをあらゆる劣悪な個々のJudenな社会的環境に形付けられてきた人間であるという表現が的確です。
 少なくとも現代日本において「金さえありゃあ」という人間を放っておくわけにはいきません。無知な人間というのは必ずどこかで歪みを出します。それは無知であることや愚かさを志向しているマザーコンプレックスなJudenの本質なんですね。もしそういったJudeな人間で生涯にわたって歪みを出さずに他者に危害を加えることなく生きられた人間がいたならば、その人物は(前世紀の)ノーベル賞受賞者級の偉人です。

 おそらく誰でも子供の頃を思い出せば分かりますけど、いわゆる悪ガキというのが居ましたけど、ああいったのがそのままの性質と精神年齢で大人になったようなのが某巨大匿名掲示板群周辺にウヨウヨ居るんですね。どういうことかすぐに想像していただけると思うんですけど、最悪です。ナチスです。「気に入らないから殺しちゃえっ」というノリで脅迫や殺人行為を平気で行います。あの周辺の連中はネットというものの悪い利用の仕方の典型例を示してくれました。これは一発カマして修正したろか・シバいたろか的な煉獄的なものではなくて、日本人が大好きな川端康成的変態エロクラブ的レイプな性向を持つものなんですね。
 今でこそネットがあるので私もこういったように自分の被害と共にそれら反社会的行為の社会的損益たるものを訴えることができますけど、これが無かった前世紀は本当にこういったことが平気でまかり通ってたんだだなと考えさせられます。かといってまた極端な話戦前はそれが無かったかとかそういう単純なお話ではなくて、戦前だってさらに酷い程度に社会のあちらこちらで見られたでしょう。

 ストーカーならストーカーでストーキングされてても別に気にしなければいいじゃないかという人がいるかもしれないですけど、ストーカーの何がウザいかというと、ストーカーの豚演技そのものではなくて、ストーカーの演技が下手糞であってしかも豚臭いにもかかわらず自分らが秀逸な演技をしているかのように見せかけまたそういったオーラを漂わせているという事実がこの上なくウザいんですね。コミュニケーション能力が低い分際でコミュニケーション能力を高くみせかけてその稚拙なコミュニケーション性を前面に押し出しているのがこの上なくウザいんですね。分かりやすく言うと一言で言うと「風景としてのワザとらしさがウザい」ということです。特に対人コミュニケーションということでは、苦手な分野の能力であるものを出してもそのレベルの低さにもかからわず(コミュニケーション性において)自分を必死に高く見せようとしているのが他人にとっては異様なまでに不快なだけなんですね。くだらんことに気を使わなくていいということです。他人に対していたずらに気を使えば使うほど人間ダメになります。で、ストーカーにおいて豚演技臭さはもちろん素ですけど、下手糞さというのはもはや故意に演出しているとしか考えられないんですね。一種の挑発です。というのは、何度も説明しているように、被害者に対してストーカーを行っていること自体を被害者に知らしめるという形で被害者にヒビを入れるところからストーキングによる攻撃をストーカーは始めていくからです。

 快楽の何が危険であるかというと、万人が肌で分かっているとおりそれに対する依存性が喚起せしめられるからです。現象としての個々の快楽に対する依存そのものは具体的な何らかの医療手段その他で治せるものなのでそこまで危険であるということはないです。快楽に対する依存性が喚起せしめられることが危険だということです。方向性として悪い方向へ傾くべくベクトルをかけられてしまうということです。つまりそうなるとその人は全ての事象に対して、あらゆる物事に対応する場面において悪い方向へ傾いてしまうということであり、他人への加害意識がつのったり何かを行うにおいて失敗が多くなったりしてしまうということです。だからそれがイデオローグ化された「快楽主義(者)」なんていうものは、悪い方向へ傾くことをそもそも元来的に意識しているということであり、最悪です。



 哲学者の中島義道さんは「想起」は予測や予期や予感するということとは違って、何らかの対象を特定するというものであると言ってますが、それが過去以外のものである時、つまり何らかの対象を想起(予(測)・予(期)・予(感))しうる、何らかの対象を想起(予(測)・予(期)・予(感))するということが成り立つ(かのように見える・思える・錯覚する)そのものが、社会的死荷重たる「|∞|/0の因果関係」の存在でありマザーコンプレックスだということです。


 「私が知りえない未来が存在しつづけることは、どこからも導かれない。未来が存在しないときでも、その後「空虚な時間」が延びているだけと言うべきであろうか。いや、そこには数えられるものも存在しない。したがって、じつは時間自体が存在していないのだ。―中略―未来とは、湧き出してくるところを、そのつど関心に基づいて一つの〈いま〉として区切る操作のたびごとに、その〈いま〉の彼方に描いた次の〈いま〉という幻想にすぎないのである。」

――中島義道著 「時間論」 ちくま学芸文庫 より―― 


 具体的に物事を何がどうなるか考えて予測・予期・予感するのではなくて、「ああ、あの被害にあった人は苦しいだろうな」という「想起」をしている限りでは、大きく間違えたことになるということです。
 ちなみにキリスト教の聖母マリアの処女懐胎は、強引に哲学的に表現するのなら「|∞|/0の相関関係」です。そこに因果関係が成立したら大変です。



 養老孟司さんが2009年の5月頃のどこかの新聞記事で、「インターネットは既知のすべてを情報化した」と言ってるんですけど、私は当時この文面にパッと見違和感を覚えました。が、これに違和感を覚えることに現代の病、突き詰めれば精神分裂病(統合失調症)、Schizophrenieの問題があります。私はこの時、「インターネットは既知のすべてを情報化したのではなく、既知のすべては(言葉で説明されうる)情報であり、インターネットは(情報である)既知のすべてを濾過し、重要なものだけを取り出し、主に言語化・場合によっては映像化した」が正しいと考えました。これが間違ってるんですね。
 例えば、携帯電話というものを考える時に、「電話機能を主としてインターネット接続やカメラ機能等様々の用途に使用されるものであり、重量・大きさ共に手で持ち運べる大きさのもの」という様に言語化してそれを絶対真実であると大方の現代日本人は認知してしまうんですね。画像を見たなら画像を見たで「ああ、これがスマートフォンか」という納得のもとそれがどういったものか100%理解した気になってしまう人間が多いということです。おそらく世代的な問題、受けた教育の問題が色濃く出ているんだと思いますけど、養老孟司さんのような「知」的な人間というのは、携帯電話というものを捉える場合、実際手に取ってみて重量や色や形状や通話機能・オプション機能その他を五感の全てを使ってその物のその物たるを確かめる、ということを行います。下手をすれば舌を使って舐めるということまでやるんじゃないかということです。実際この養老孟司さんという人は虫の採集でも有名です。こういった人たちで常識という言葉をやたらと使う人たちが居ますけど、この人たちの言う常識というのはそのリアルなものそのものということです。カントのDinge an sichはこれとは違います。これは「想起」であり、前の記事で説明したような個々の事物の光という波長の如き"communicationized"だということです。

 現代人におけるこの傾向はネットが社会に普及するはるか昔から、おそらくテレビが登場した50年前から煽られてます。もちろんこれはその後に訪れた高度経済成長と関係があります。養老孟司さんはテレビというものの社会においてのあり方についても言及してました。まあ財やサービスにおける情報の個要素の一義化・一面性化とでも言おうか、宣伝・広告による害悪は凄まじいです。最近は都内の地下鉄や電車でも広告が減ったのが風景的に健全を志向しているようでとても喜ばしいです。
 「~がいい」という、物事のいいところばかりを宣伝するやり方というのはこれにおいて害悪なんですね。「悪いところは見ないでね」と言っているのと同じだからです。現実の財・サービスはそのよろしく映された一面においてのみ存するわけではありません。私はこのブログで「アレはダメ」「コレはダメ」ということを多々書いてますけど、こういったことにおいてもちろんこちらの方が良いわけです。「アレがいい」「コレがいい」だけというのは詐欺や悪徳商法というか単なる騙し以外の何物でもないんで、まったく止めるべきです。だから極端な話、ネットの匿名掲示板はその意味では良かったりします。twitterなんて落書きやネットで活動するにおいての具体的情報提供以外の、「アレがいい」「コレがいい」とかの目的で使ってると最悪です。

 言語の世界で考えているから、というよりは「言語のみで考えているから」そういう一種哲学的な病の方向へ走ってしまうということです。これは言語能力の高い人間に多いです。哲学者の中島義道さんという人もおそらくこういった人です。
 養老孟司さんは「言葉なんてたいしたことない」と言っている人です。つまり言語というものを絶対真実ではなくて物事を表すにあたって一つのアプローチに過ぎないと考えている人だということです。

 文学的知識・唯名的なものの見方というのは、この養老孟司さんが言うところの情報化(言語化)や「想起」の方ではなくて、リアルなその物を一言で表す、少なくともそう試みている点において「知」的なものであるということができそうです。



 漫画家の楳図かずおさんがあの御年になってフランス語の勉強をしているというものをなんか昔NHKのドキュメンタリーか新聞記事か何かで見た覚えがあるんですけど、ああいったご老人の行動は実に尊敬できます。というのはああいった人たちは社会工学的な認識をきちんと持っていて、自分の行いが少しでも社会を良く・悪くすることをしっかりと自覚しているんですね。例えばほとんど寝たきりになったご老人でもノートに字を書いて練習している人というのが居るんですね。こういった人というのは実に賢いです。一見して蒙昧なことでもきちんと物事分かった上での行いであるというか、真に社会的な感覚を備えている人間のそれであって、実に見習うべきものがあります。
Hide your face.
 小噺をひとつ。




 残念ながらいわゆる右翼とやらが大多数の人間に嫌われるのは、人権侵害の火種を作るクズが中には多々居るからです。ヒットラーは義憤に駆られてというか義憤と私憤がごちゃ混ぜになってユダヤ人を排斥した人間でしたけど、その「ヒットラーにおける怒り」の火種を作るミクロ経済的価値意識・マザーコンプレックスに浸されきったクズが残念なことに右翼の中には居るんです。
 私が通った高校はどちらかというと右の高校でしたけど、もうカワイソウなチンピラとしか言い様のない教師とかが中には居るんですね。化学や物理で優秀な先生がいらっしゃいましたけど、まあ何を勘違いしたか生徒を意図的に踏み潰していくような大たわけの馬鹿者というかもはや犯罪者としか言い様の無い豚が教師の中には居たんですね。こういった教師は意図的に右翼の学校の破壊活動を行う左翼のユダヤ的工作員ではないかと思われる程にクズでした。

 「豚」という形容はそもそもユダヤ人に対して使われていました。豚はそもそもからして嫉妬豚ですし、「ユダヤ」の「豚」というわけです。残念ながら日本における戦後のいわゆる右翼にはこの「豚」が混ざっていたということです。

 最近のストーカーの中には、連中が被害者を装うこともできない、ターゲット(私)を加藤智大さんの様に在りもしないものの加害者に仕立て上げることもできない、となると、今度は連中がターゲット(私)の保護者であるかのように振るまい、それをターゲット(私)に思い込ませようと試みるということを行ってくる連中が居ます。これはストックホルム症候群を作り出す典型的なやり口であり、新興宗教の勧誘や詐欺によって騙す場合の類と全く同じものです。ひたすらなうっとおしさの極みであり、ウザさの極みです。

 ここで小話を一つ。

「 島見図広吉(仮称)は高校教師。回りの同僚の教師に比べて非常に低学歴でそれに劣等感を感じておりコンプレックスが強い。生徒にはバカにされている。当然の如く同僚の教師にはさらにバカにされている。
 「分からないものは気持ち悪いと思わなきゃダメ!」「流れに乗らない奴を排斥しなきゃダメ!」とやらのセリフを高等学校の教室の教壇の上からひたすらデカい声でギャーギャーわめきちらす。クラスには香港人の生徒や生まれつきの先天的な障害によるもので頭蓋骨が変形している女子や友達がいなくて常に一人でいる男子生徒が二、三人居る。にもかかわらずそれを理解した上でこういったセリフを教壇上から故意に吐く。教師としての前に人間として論外。60歳過ぎの美術の先生によると、「島見図広吉先生も昔はあんな先生じゃなかったんだけどねえ」とのことである。
 朝礼か何かの頭髪検査の時、「○○先生(教務主任等の上司である教員)!こいつメッシュですよ!」と叫んでいたが、親がお偉いさんである男子生徒に「『メッシュ』って言葉覚えてまで若づくろい大変ですねぇ(↑)?」とからかわれていた。島見図広吉はこの生徒には絶対に逆らえなかったどころか、授業中に指名して答えを褒めて媚びるようなマネまで行っていた。島見図広吉はこういった小物でありこの点においても馬鹿にされていたが、またそれでいて生徒の信奉を集めようとしていたので生徒からも同僚の教師からもさらにバカにされていた。
 気の弱いのび太の様な生徒がいたが、彼は島見図広吉に「明日から学校へ来るな」と言われて本当に来なくなってしまい学校を辞めてしまった。
 島見図広吉は、文科系の生徒はちょっと調子に乗っているだけで朝の登校時等に捕まえていたが、自身が担当する理科系の生徒はわざと見逃されていた。理科系クラスでも評判は悪かったが、当然文科系クラスの方ではさらに評判は最悪であった。
 A君という生徒が居たが、島見図広吉の出した宿題を行わなかったことでA君は席を立たされ、目の前に島見図広吉が来てもA君は無視していたら「ノルマって分かる?」「は?まあ」「これは理系のノルマ。学校つまんないでしょ?やめれば?」と島見図広吉はA君に対して言った。A君は「まぁ~、今まで我慢したんでえ?」と適当にノロけてみせた。そうしたら「卒業できると思ってんの?」「ハイ(?、笑)」「がんばって」と言って去っていった。島見図広吉はA君が自分を嫌っていることを当然知っておりチンピラ不良少年並の絡みを行ったのであった。ちなみにA君は島見図広吉の脅迫により学校をやめさせられたのび太のような元生徒のことをその時点で知っていた。この島見図広吉の行動においては立派な脅迫罪が成立する。
 そもそも島見図広吉はその高校の二十何年か前の当時の非常に頭の悪い子供が集うアレな状態のその高校へ入った生徒だったのであり、そもそも卒業生だからというコネでその母校である高等学校へ入社した。島見図広吉ほどの低学歴ではまともな所へは就職できないからである。
 「数学科なんか行かない方がいいよぉー?数学の先生になるしかないんだからぁ!」とのセリフを教壇上からバカデカい声で吐く。理科系のクラスで数学を真剣に勉強している高校生の子供の前で吐いてよい言葉ではない。もうこの時点で理科系の教師としてやっていていい人間ではない。
 教育はおざなりにして「教師である前に人間だから!」と悲痛なまでに高等学校の教室の教壇の上から15、6の子供に向って叫ぶ。典型的なユダヤ人である。本質的には「僕を分かってよ!」とか「僕を人間として見てよ!」とかいうエヴァンゲリオンだかのブサイクアニメの主人公とかと同じ。
 島見図広吉が行っていることにおいては脅迫罪が成立する事件が多々存在する。」

 ここで登場するAがもしかしたら私SSであるかもしれないんですけど、まあこれがフィクションであろうがノンフィクションであろうがこの記事の本質とは何も関係は無いのでそれはここではどうでもいいとして、この仮そめ(にも)教師が行っていることは脅迫であり犯罪なんですね。現代でこんなことをやったらこの教師は即警察にお縄であって、捕まるわけです。この教師の行いはストックホルム症候群を狙って失敗しているケースです。典型的な犯罪者です。経済学を少し勉強してからヒットラーの「わが闘争」を読んで知ったんですけど、この教師のような人間は典型的なユダヤ人であり、まさしくヒットラーの言うところの「戦争賛美者」なんですね。"Mein Kampf"は戦後ドイツでは禁書にされたみたいですけど、何がどうなっていたのか知るためにも、ドイツの人にも是非読んでいただきたいと勝手に思ってます。評論家の内田樹さんあたりが現存する典型的なこの戦争賛美者であるユダヤの豚の例として分かりやすいです。

 ユダヤ人というのはそれが如何に内向きに謙虚で健全に見えるものでも、内向・外向つまり自他に向けたパワーハラスメントな性向を持っており、典型的な犯罪者性向を持ってるんですね。内向的な自分に向けたパワーハラスメント性を持っている人間というのは、如何に表に出さなくても、「自分さえよければ」「自分さえ助かれば」という発想というよりは感覚がこびり付いているような人間のことであって、その自覚がありません。それをこの小話のチンピラ教師の様に露骨に表に出すと、単なる反社会的人間として扱われるというか反社会的人間であることがバレてしまうということです。残念ながら戦後日本の右翼にはこのユダヤ人が多数入り込んでいる(いた)んです。戦後政権を担っていた自由民主党にはこういった豚みたいなJudenが多かったみたいです。まさに腐ってたんですね。

 私が通った学校にはおそらくご存命であれば恩年80歳くらいの右翼主義者の先生が居たんですけど、この先生はちゃんと褒めることは褒めて生徒をきちんと管理して伸ばすということを行っていた先生だったんですね。チャラチャラしたチンピラみたいのはこの先生を嫌ってましたけど、私はこの先生に褒められたこともありましたし、お世話になりました。この先生はチンピラ教員とは違って学識もある方で本物の右翼主義者でした。この先生はチンピラ教師とは違って日本という国がどういうものであるか、社会というものがどうであるかきちんと勉強して知っていた人でした。若いうちは分かりませんでしたけど、このことは今になって実によく分かります。大人になれば分かることというのはあるといえばあるんですね。



 一つ前の記事で書いたミクロ経済的意識を再燃させて潰すということをひたすら行った精神科医が実在します。

 ここで小話を一つ。

「 M'z a 悪意(仮称)は国立病院精神科医師である。まあなんというか、すごい医者。ナチスを装ったヒトラー狩りのユダヤの穢多。超女性的人間。マンガに出てきそうな悪徳な医者。アメリカだったら間違いなく訴えられるレベルの悪党。あそこまで露骨だと精神科に掛かっている患者に対して何らかの目的で演技を行っているかと疑われる程。非常に子供じみて、というよりは小学生じみて見える。診療医としては失格、医療研究者としてはどうであるのか不明である、が、診療医として全くダメな人間が医療研究者として優良である訳が無い。滑稽さやイタさといったものは無い。しかし何らかの原因で脳を病んでいる人間、特に統合失調症患者に対して悪意をもってして貶めようとしているのが露骨に観察される。非常に陰惨な影を漂わせている。こういった人間にヘタに権力を与えるととんでもないことになる。まるでゲッベルスやプロパガンダ用のモデルを使って自己を喧伝した醜い小男スターリンの様に。
 基本的に自分のことばかり考えている人間。まあもう保身欲のカタマリといった感じ。診察室で患者のカルテをコンピュータでタイプするにおいて患者が間違いを指摘したところ、「ボクのカルテの内容変えないでくださいよー」と彼は言った。もう自分の面子や保身で精一杯である。患者のカルテというものは診療室におけるその患者の状態や訴えた症状を記録するものであって、つまりM'z a 悪意医師の記録する患者○○のカルテというものは「M'z a 悪意医師が記録する患者○○のカルテ」であって「M'z a 悪意医師によるM'z a 悪意医師のためのカルテ」ではない。ちなみに当該の患者が診断書を5000円程度のお金を払って請求したら事実と全く異なることをM'z a 悪意は記載した。
 分かりやすく言うと非常に卑劣漢な感じ。典型的なボクちゃんすごいタイプであり、子供時代に教室に居たらこりゃやられるだろうな、っていうウザさを持つ。一言で表現すると「抜け駆け」な感じが露骨に表出している。だから「は?なんなのこいつ?(なんでいきなりこんな「自分だけ」みたいなこといきなりやんの?)」とフトした瞬間に他人に思われて、本人が居ないところで「なあ?オレあいつウザいんだけど?」とか誰かが言うと「実はオレも」っていう賛同者が多々いる、といったキャラ立ちである。ギャーギャーわめき散らす露骨なウザキャラとは違う。
 このM'z a 悪意医師は診察において得た情報を、患者の知らないところで患者の家族に故意に知らしめることを多々行っている。
 診察室へ呼ばれる前に3つくらい隣の診察室で怒鳴り散らしていた患者が居た。とある患者が診察室入ってからM'z a 悪意医師に「あの診療室の先生は何の先生ですか?」と聞いた。で、「そりゃ精神科医です」と患者は言われ、彼が「いやだから、統合失調症担当の先生とか老人の認知症担当の先生とかいるでしょ?(その意味で何の先生ですか?)」と聞いたら、「とりあえずてんかんの先生ですが、だからといってあの(怒鳴りちらしてた)患者さんがてんかんかどうかは私には分かりません」とM'z a 悪意医師は嫌味げな言い方で答えたが、患者は純粋な意味でその診療室で診察を行っていた(怒鳴られていた)先生が精神科医として主に何の病気の担当の先生かを聞きたくて聞いただけである。だからM'z a 悪意医師は「相手(俺)が怒鳴り散らしていた患者が何の病気か知りたがっている」と勝手に思い込んでそういうカタチで答えを返したということである。非常に思い込みが激しく対人関係に難がある。
 また、M'z a 悪意医師は統合失調症の治療を専門とする精神科医として薬剤について詳しいが、とある患者が「先生達は食品に関しての栄養学、栄養士さんたちが学ぶようなものは学ばないんですか?」と聞いたところ、「いや、まあ、大学の時にやったことはあるけど、まあ好きな科目だとやる気にもなるけど、興味無いモノは試験の為だけに覚えてテスト終わったら忘れちゃうでしょ。医者だってそれは同じです」と言った。薬物も食品に含まれる栄養素も脳を含めた人体に影響を与える物質としては同じであり、M'z a 悪意医師とてそれが理解できないような頭の持ち主ではあるまい。ここで何が問題であるかと言えば、それは精神科医であるにもかかわらず、自身固有のエゴイズムを当然のものとして振りかざすことである。しかし精神科医の場合は藪医者と見なされ客が離れてゆくだけであろう、が、この医師の場合はその限りではない。この医師は「時間が無い」で逃げることも多々ある。
 M'z a 悪意医師の机のモニターにはinformed concentの文字が浮かび上がっているが、もはやそれはギャグ以外の何物でもない。
 またM'z a 悪意は自分が厚生労働省管轄下の国家公務員であることにかこつけて、自らベタなマンガのそれのような「悪徳な官僚」の図を演じて患者に対して必死にアンチ官僚的意識を植え付けようと試みていたが、患者一般はそれに簡単にのせられる程には愚かではない。」

 こういった医師が平気でデカい顔をして精神科医をやってるんですね。もしこの医師が実在しこの小話の中に出てくる診断書の件その他が事実であるとすると、これは医事法違反や医師法違反を犯して他者に加害行為を行っている露骨な犯罪者です。

 「診察において得た情報を、患者の知らないところで患者の家族に故意に知らしめること」は日本の法律で禁止されています。精神科医は、「診察において得た情報を、患者の知らないところで患者の家族に故意に知らしめることを多々行っている」という時点で警察に捕まって医師免許を剥奪されます。もしこの医師が実在しこの小話の中に出てくるこの件が事実であるとすると、彼は警察に逮捕されて医師免許を剥奪されます。というより殺人なんですね、これは。

 私が永らくお世話になっていたN医師(仮称)という先生が居るんですけど、この先生は今度閉院します。言っては悪いですが、逃げます。最近別のクリニックへ行ったんですけど、N先生がそもそも7年半前に始めて投薬したパキシル・ルボックスはあなたに合うはずがないと言われました。N先生にはこれを投薬した責任があります。N先生は上の小話の医師と同じくアメリカだったら間違いなく訴えられます。N先生はご老齢故に私はご本人に直接申し上げはしませんけど、一体藪医者としてどれだけの人間を踏み潰すどころか踏み躙ってきたのかと問い詰めたい。もう私もいい加減このあたりの人間に愛想が尽きているのでいくらでも書きますけど、このあいだ私が「自分に関することで社会的な要因に基づいているもの」について話したところ、「わ、私はいっさいノータッチ」とホザいていました。このご老体は薬物を投与した責任については一切ノータッチというアレ物です。前世紀の戦後日本社会に生きてきた連中というのはあまりにも好き勝手やり放題で身勝手です。

 ここには凄まじいまでの情報の非対称性が存在していて、最悪のmoral hazardが発生しているんですね。これはレイプです。こういった医師が(仮にも)実在する限りでは、早く精神医学界には黒船を送りつけるなり核ミサイルをブチ込むなりしないと被害者が増えるばかりなんですね。おそらくアメリカとかでこんなことをやっていたら精神科医は片っ端から訴えられて警察に捕まります。
 精神科医は、患者を統合失調症と診断した限りにおいてはそのことについて責任をとらねばならないんですね。つまりそこに患者の意思が存する限りにおいて当該の患者に対して終身医療的に統合失調症に対する治療を行い続ける義務が精神科医にはあるということです。まあ平明に言うのならば精神科医に患者を拒否する権利は無いということです。そして患者がそれを部分的にしろ総合的にしろ拒否するならば精神科医にそれを強制する権利はありません。もちろん患者に対するパワーハラスメント等嫌がらせによるそれへの促しは論外あって、もしそれを行ったならば精神科医は警察に捕まります。患者が訴えた症状やその他検査等により判明した諸症状については、精神科においてまかないきれない部分においては、内科、外科、その他の診療科へかかることを精神科医は勧めるべきでしょう。ちなみに統合失調症については、患者側が経済的理由により医療費を当該医療機関に払うことができなくなっても、患者は治療を受ける権利を保持し、そのことは日本の法律では決められており、その場合精神科医は統合失調症であると診断した患者に対して無償で診療を行わなければならないということです。



 私の父親はワザと幼児的・マンガ的な右翼主義者を子供の前で演じてそれで単純にも左翼的なものへ子供をハシらせようとする馬鹿な人間でした。その様があまりにも幼児的で単純であるため、子供の時分から私にはそんなものはありありと分かりました。先の記事で私がヒットラーに興味を持つのは自分の父親と被るからだと書きましたけど、私の父親はヒットラー並に単純でコミュニケーション能力の低い人間でした。英語とかは全く出来ません。そのコミュニケーション能力が幼稚園児並であるが故に他人に嫌われることはなはだしく、それをカバーする為に暴力にうったえる、というかそれでしか他人と意思疎通を図れないという類の人間でした。もちろん親族中で嫌われており、特に女性には超嫌われてます。子供の頃に時たま見られたイジめっ子であり同時にイジめられっ子である嫌われ者、典型的な兵隊ヤクザの類です。最悪です。ちなみにナチスというのは右翼でも左翼でもなく愚かなならず者ファミリーです。私の父親もそうですけど、虐待する為にわざわざ虐待する対象を作り上げるという最悪な行いに及ぶんですね。典型的な悪人であり犯罪者です。しかも近年ではそれにはとどまらず必死になって息子の私を反社会的人間に作り上げようと試みました。非常なエゴの塊です。
 で、私は別にいわゆる右翼に問題があるわけではないことを子供の頃から分かっていたので、そういった学校のうち一番頭のレベルがマシなところを中学生の時に滑り止めの高校として選びました。まあ関係無いですけどつまりは受験に失敗したということです。

 私の母親は豚でした。父親と同じくエゴの塊でありミクロ経済的価値意識の具現体でありマザーコンプレックスの権化でした。まったくのユダヤの豚肉女としか形容しようのない豚人でした。全く家庭の管理をしない・家事をまともに行わないどころか、自分の夫には逆らえない・強い相手に逆らっても無駄なので自分の子供に嫌がらせをして痛めつけるような豚女でした。自分の買ってきた粗悪な菓子はドカドカ食わせ、そして食事はまともに作らないどころか故意に悪く調理して食卓に出す有様でした。油とか故意に空気にさらして酸化させてから使うんですね。最悪というよりはキチガイです。おかげで私は10歳になる前の子供の時分から肥満体で、2012/01/28日現在三十歳ですけど、もう肉体はボロボロです。体に悪いところが数十箇所あります。アメリカ人とかすぐ離婚しますけど、こういった夫婦は離婚しないことにはどうしようもないです。
 で、この母親がどういった人間であるかというと、他人の前での外ヅラが異常なまでによくて、家の者に対する顔とそれ以外の人間に対する顔が異様に違うという八方美人のブタなんですね。電話等で第三者の悪口を並べたてることたるや凄まじいです。中学や高校時代の三者面談等は先生の前でまるで別人のような態度を取って善良人・健全人ぶるので私は心底ブチ切れそうになりました。自分が豚肉みたいな顔をしている分際で、というか自分が豚のような顔をしているからこそ他人の見た目が男女ともに大好きです。他人の人格をほぼ見た目で判断して決め付けるような愚かさを持っています。また他人に頭が悪いというレッテルを貼りたくて仕方が無いのだが、自分の頭が悪いのでそれが叶わない哀れな畜生女です。物事を内容単位で考えたり捉えたりすることのできない憐れな豚です。思い込みや決め付けの激しさが異常であり、つまりは人単位でものを見て気に入らない人間には「否」というレッテルを貼りたくて仕方が無いという、まさにマザーコンプレックスの権化のような豚女というよりは豚肉女です。

 以下概略。

「 家事は私が子供の頃からロクにやらない。今も昔も部屋は汚れ放題である。私が掃除をするから具体的な指示をしろと進言しても、掃除というものを拒絶する。不潔を通り越して不衛生な女。まさに穢多っぽい。父親が一日おきか朝リビングの掃除をしている。私も定期的にリビングや廊下に掃除機をかける。洗濯はさすがに行わなければ支障が出ると考えているのか行う、まあ洗濯機のボタンを押すだけで済む話だからである。賞味期限の切れた食べ物が大好き。何でも冷凍すれば保存が効くと思い込んでいる。なんでも加熱すれば大丈夫だとこの馬鹿な母親が言うので、私が「腐敗というものは雑菌が湧くとかそういった類のものではなく(それが菌類によるものであっても)物質の組成が変化して人体に有害な有毒物質に変化するものだ」と説明してもまったく理解しない。中学校程度の理科や数学の教科書を読んでも理解できないものと思われる。冷蔵庫の中には賞味期限が年単位で切れた食べ物がいっぱいゴソゴソつまっている。私もたまに進言するし、父親も時々それを言っているのを聞くのだが、処分しようとも食べようともしない。食べる目的でとってあるなら(どうみても腐っているだろうが)自分で食べればいいものを、全く食べようとしない。そもそも粗悪な品を食品添加物無しの謳い文句のもとに高い値段で売りつける新興宗教のような「生活クラブ」とやらで食品を買ってくる。しかもその「生活クラブ」の食品たるや消費期限が切れて大幅に日数が経っても全く腐らない。当然加工品にJASマークなどはついておらず、何が入っているのか気持ちが悪くて仕方が無い。味はこの世のものとは思えないほどに不味い。意図的にそういった「不味い」味にしているものと思われる。食品衛生法を違反していることは間違いない。是非査察を入れて片っ端から取り締まっていただきたいものである。野菜室の野菜が腐っていることなどは日常茶飯事。食品添加物や保存料の入っていない食べ物が大好きであり、だからこそ余計に早く食べてしまわなければ問題であるにもかかわらず、無根拠に古いものを「食べれる」と言って家の者には分からないように(稚拙ながらもそう試みながら)料理とは呼べない料理に混ぜて出す。賞味期限がその日限りである魚の刺身を、「次の日までおいておいた方が刺身はうまくなる」とか頭がおかしいのではないかといったセリフでわざと次の日まで置いておいてから食卓に出す。そして腐敗した食べ物より保存料の方が有害だと思い込んでいる。昔ばなしに出てくる毒メシや毒リンゴを食わせる魔女の老婆の様である。愚かを通り越して呆れる。食用油の缶に穴を二つ空けワザと空気にさらして酸化させてから使う。それが一年近くも放置されており、それを料理とは呼べない料理に使い続ける。アミノ酸一般はそもそも多くの食物に含まれている重要な栄養素であるにもかからわず、それが添加物として食品に付加されているとこれを異様なまでに嫌う。料理と言える料理は私が子供の頃からまともに作ったことはほとんど無い。その味たるやさすがアミノ酸を嫌悪しているだけあって、そうとうに酷いものである。私は小学生の頃学校給食の時間、同級生が給食をマズいマズいと言いながら食べているのが全く疑問であった、なぜならば私は給食が美味くて仕方がなかったからである。おそらくそれほどに私の母親の料理は酷いものであった。私が幼児の頃から栄養のバランス等全く考えず、菓子は無鉄砲に食わせるわ食事の内容は酷いわで、私は子供の頃から肥満体である。これは有名な話だが、米国の社会において顕著に観察されるように肥満体の人間というのは社会的低層、低所得者層に多い。低所得者層の人間というのは、栄養価が低くカロリーだけ高い安価な食品を高所得者層の人間に比べて摂取する率が高く、また高価な新鮮な野菜を摂取する率が低いからであり、生活の管理等が管理能力の欠如や「ものぐさ」等の性質により乱れているからである。要するに私の母親のような生活管理のできない人間は社会的低層に多いということである。まさにJuden。」

 といったところがだいたいの私の母親の特徴です。まさに「豚」です。何故父親がサッサと離婚しなかったのか私には理解できません。

 最近の新手の嫌がらせとしては、私が外出した際に、私がドアの外へ出た後に玄関の鍵を故意に開け放しておくという嫌がらせをやってくるんですね。私は子供の頃から自宅の玄関の扉の鍵を閉め忘れるということはただの一度も無いんですけど、去年あたりから二、三回ポツポツとそういったことがあって、おかしいなとは思ってました。で、家に居ることが多い母親にそれについて問いただすと、この女馬鹿なので豚臭い演技しかできないんですけど、返答があまりにワザとらしいんですね。これで今回のことに至ってやっと正体が判明したわけです。
 この嫌がらせは被害者(私)があたかもカギを閉め忘れたかのような被害妄想を被害者に抱かせるという目的のものであって、もはやことここに至っては幼児的や精神異常といった形容を通り越して幼女が他人に言うことを聞いてもらえずにぬいぐるみに向ってダダをこねてワガママをぶつけているかの如くなんですね。人豚ここに極まれりとしか言い様が無いです。これは私が精神科に通院している精神異常者であるから、という理由で行うことができる最悪にタチの悪い嫌がらせなんですね。これによってどんな不祥事も全て被害者(この場合だと私)に罪を被せることが可能であるという最悪の行為です。そしてイザとなるとこの豚女まったく何事も感知していないような(偽)善者を装うんですね。
 で、私の意に反して私の家族・親族もこれを見ることになる可能性が高いので、この場ではっきり言っておきますけど、この豚女やることがもはや私以外の親族にも危害が及ぶ範囲に達しているので、早く精神病院なり老人ホームなりに押し込めるなり田舎の豚小屋へ追い返すなりしないと後々マズいことになるんですね。(もしかしたら私が学生時代自宅の近くに借りて住んでいたアパートに無断侵入して「知らしめる」という形でストーカーの被害を形づくることの発端を作ったのはこの女かもしれません。)

 今でも私がPCでネットを使うと意図的に「細かな」音を立てて嫌がらせをしてくるんですね。小学生か?と言いたくなります。もう何を言えと言われても形容に困ります。穢多や豚を通り越してゴミっぽいです。

 こういった(嫉妬)豚女に典型的に見られるんですけど、「甘えさせて、潰す」というのがこういった人間たちの常套手段です。これは被害者をストックホルム症候群にかけようとする悪徳な人間に典型的に見られることです。また同じく観察されるのは、弱い者へ弱い者へと暴力的禍の連鎖を作っていくということを行うんですね。それは特定のコミュニティーにおける弱者だったり、自宅のペットの動物だったりします。自分がイジめられない為にイジめっ子を作るという典型的な豚女です。

 おそらく今でもこういった穢多畜生豚畜生のような人間の分際で人の親になるのが日本中の何処かに居そうなので、学校の先生でもしこの記事をご覧になる人がいたら声を大にして言いたいんですけど、給食は実に栄養のバランスがとれた内容なんでしっかりと子供に食べさせた方がいいです。小学校だけではなく中学校も義務教育のうちは給食にした方が良さげです。私は今でも小学校の給食のおばさんには感謝してます。

 少なくとも私の親族・家族においては、あの私の母親である豚女がストレスの源・死荷重を作り出してます。自分も損をする上に自分以外の全ての人間も損をする行動を意図的に選択して実際行為に及ぶという穢多畜生というか豚畜生とやらが2012年現在においても残念なことに日本の世の中には存在します。だからどんどんこういったブタを消去して健全な人間が健常に生きられるようにしようというのがいわゆる「常識」です。司法にかけて裁くのであっても税金もかかる上に殺す方もわざわざ殺さなければいけない手間と人殺しの負い目を負うことになるというリスクが存在するんですね。今は医薬品や巷に溢れるあらゆるストレス解消のツールでブタも治るので、別に何も心配することはないです。私のオススメは何でも言語化して記述していくということです。おそらく昔に比べればこういったブタは大分減りましたけど、未だに居なくならないんですね。こういった豚を増やすことになるからマンガ・アニメ・ゲームはタチが悪い、というかそもそも豚属性の人間がそういった商売に携わっている(いた)わけです。先にも書いたように売春婦育成産業・売春夫育成産業だということです。



 ウーマンリブというのがありますけど、アレはまさにミクロ経済なものを人間の前面に押し出しているものであって、非常に愚かしいです。というのはそのウーマンリブとやらを振りかざす一部の女のせいで全ての女性が負い目を負い損益を被るんですね。まさに豚の所業です。こういう連中はヒト的にというか人体的に男と女というものがどういうものであるか全く理解していません。

 ここで小話を一つ。

「 萩野(仮称)は英語教師。かなりのウーマンリブ。臭い。男子も女子も平気で生徒を呼び捨てにする。興奮と性的興奮の区別も付かない無教育ぶりの分際で公立中学の教師をやっていられるクズ。実際授業中に「何で女をストレス解消に使うんだよ、ゲームでも何でもやってストレス解消すればいいじゃねえかよ」と(実際そのような言葉使いで)教壇の上から言葉を吐いていた。英語教師としては極めて無能であり、その無能さを隠す為に教務主任としての立場でハバを効かせていた感じの全くもってダメな人間。成績の付け方があまりに酷く、試験でトップをとるような生徒にただ単に気に入らないというだけで五段階で5ではなく4の成績を付けていた。その生徒が学校を卒業して半年後、おそらく上から何か言われて教師を辞めさせられていた。駅のホームで高校生になったその生徒と遭遇するや否や舌打ちをしながら下を見ていた、という(ユダヤの)ブタでもある。」

 こういったのが前世紀は子供に教育を施す社会的に最重要な場で平気でのさばってました。子供は子供の時点でこういった豚に潰されるわけなので、その社会的損益たるや凄まじいものです。

 小学校の先生で児童生徒の名前を呼び捨てにしていた先生はごく一部にチンピラ教師みたいのが居たのを除いてほぼ無かったと思うんですけど、中学では教師どころか女子生徒までが男子生徒の名前を呼び捨てにしているのを見て私はもの凄く嫌なものを見てた気分だったんですけど、あの名前を呼び捨てにするというのは極めて良ろしくないです。男同士で呼び合う程度なら問題無いと思いますけど、あまり褒められたものではないです。

 関係無いですけど、50歳前後かそれ以上のチリ毛の異様に分厚い唇の横長のメガネをかけた豚みたいなオバサン居ますけど、アレをみると私は極めて不快になるんですけど、何でアレは異様に分厚い唇にしかもチリ毛パーマなんですかね?ハゲてんの?自分の思惟の方向性を乱反射させたような髪型で自分を表現してんの?キモ過ぎて耐えられないんですけど。日本人には特に多いですけど、10歳代でよく見る小っこい子豚少女みたいののなれの果てが多分アレですね。私ごときが言うのもなんなんですけど、未来の日本を担う男性諸氏には本当に気を付けていただきたいです。私はもう母親が豚であるという時点で失敗しているので。
 ちょっと下品な言い方で申し訳ないんですけど、こういった豚肉ババアにストーカーで保護者ヅラをされてそのように振舞われると反吐が出るどころか胃の中のものを全て吐き出しそうになる程にウザいんですね。死ぬほど不快です。加藤智大さんはこれに殺意を覚えてあまりの憎しみに気が狂って蛮行に及んでしまった人です。



 たいていどの精神科医でも鬱病や統合失調症の患者に対して人と関わることを勧めたりそういったコミュニティーに参加することを勧めたりするんですけど、共通しているのは患者が関わるその当の相手のことは鑑みていないということです。まあ答えを言うとそのコミュニティーとやらの現場には精神病患者でもなんでもない犯罪者紛いの人間がウヨウヨ居て、もちろん精神科医はそのことを認知した上で患者にそれを勧めます。だからそれに乗ったらダメです。一見して精神障害者風の人間が多々いることがありますけど、実はただ単に子供の頃から頭が悪くてどうしようもない奴であるとかいうのがオチです。少なくとも私は三十のオッサンになってまで週間少年ジャンプを読んでいるようなのとお知り合いになりたくはないですし、会話もしたくありません。

 女の他人を引きずりおろすが為だけのグジグジしたイジめというのは思い切りマザーコンプレックスの権化でありミクロ経済的価値意識そのものなんですね。
 で、男の中には女々しい引きずり降ろし屋というのが居ます。結構遊び人風の優男にこういったのが居ます。中高生の時分だと露骨に他人に嫌がらせを行うのでクラスでは嫌われ者になるのですぐに分かりますし、オッサンになるとこういったのも流石にそういったことを止めるのでこれはこれで大丈夫ですけど、20歳代が危ないです。特にあまり男がどういった生き物か知らない女性で結婚相手を選ぶ年代の人たちが騙されやすいです、というかこういったロクでもない男というのはそういった女性を騙そうとあの手この手でやらかします。普通以上に賢い女性はこういったのの幼稚さや手段の稚拙さが一発で分かるので大丈夫ですけど、もう今どきほとんど居ないと思いますけど夢みちゃってるというか夢見る少女みたいな女性やオタク趣味を持ってる系統の女性が危険です。こういう類の男が家庭をつくると最悪なことになります。

 どんどん自分が合った酷い目なんか他人に吐いた方がいいです。悪いことでも何でもいいので、私がいくつか前の記事で書いたようにパソコンに書いたりネットでもtwitterでも匿名掲示板でも何でも使ってどんどん吐き散らかした方がいいです。ネットっていうのは皆さんとお戯れるためのものではなくて仮にお戯れる目的であっても「使う」ものですから。そうやって自分の中にあるストレスをサッーっと解消してから、さあみんなで協力しようという体勢に入れるんですね、精神も肉体も。「(悪)気」から「病」が始まります。
 カップルを見てイチャつきやがってなんたらかたらと言う人間が、それこそ昔の兵隊ヤクザな人間に多かったりしますけど、カップルなんてどんどんイチャイチャした方がいいんですね。特に結婚を前提に付き合ってるような男女のカップルはどんどん人前でも何でもイチャついた方がいいです。そういったことが嫌なんであれば、最初から人と付き合わなければいいんです。喧嘩なんかしてるよりそうした方がよっぽと健全です。本物のヤーさんはカップルなんか見ても意にも介さないでしょうけど、カップルを見て苛立つ兵隊ヤクザな人間というのはマザーコンプレックスが非常に強くて危険です。これは遊び人風の男に多いですけど、やたらと女に言い寄るような男は例外なくマザーコンプレックスのアレです。こういったマザコン男が言い寄る女というのもまたマザーコンプレックスの女なので人間関係として最悪なものがそこに構築されます。

 若い男性に言いたいんですけど、「豚」という形容の当てはまる女というのは本当に豚畜生です。やっぱり人間関係で相手は大事というか、付き合う相手は選ばないとヤバいです。クズみたいな人間しか付き合う相手が居ないならば、誰とも付き合わない方がマシです。自分がどういったキャラであるとかそんなくだらないことは意識しなくていいです、というのはそういったことを気にしだすとどんどん自分が負のスパイラルに陥って悪い方向へ傾くだけです。そもそも女には近寄らないのが最善の策です。ネットで画像見てハァハァして解消しときゃいいんです。結婚して被害に遭うのは女ではなくて男です。結婚というのは女が自分の都合の為に作り上げた社会的幻想です。豚女と結婚するくらいだったら独身の方がはるかにマシです。私は童貞ですけど、別に童貞で何の問題もありません。67年前に戦争に負けて、セックス大好きの豚みたいなユダヤの魔女にとって都合がいい社会が戦後敷かれていたということであり、例の全共闘だか団塊の世代だかの連中にマザーコンプレックスの豚が多いということです。そういったゲス豚と結婚すると、ゲス豚はゲス豚の生活環境や社会環境を作り出すので、男女ともに悲惨な目に合います。ゲス豚が増えてしまうということなんですね。私自身もここ十年間くらいにわたってかなりの豚でしたけど、抗精神病薬の服薬によって大分良くなって幼い子供の頃の健康体に戻りつつあります。



 話が少し逸れますけど、Judenというのは顔面に典型的な特徴があるんですね。いくら活発でもどこかに悲しみをたたえたような顔、そして同時に目蓋が斜めに垂れ下がった卑屈さを持った顔をしているんですね。その偽善性がそうでない人間に対して凄まじい不快感を煽るんですね。分かりやすい言い回しとしては穢多顔というよりは被差別部落顔といった表現です。これのうち醜い顔は外を歩いている人間に多々見られますけど、美形だと作家の五木寛之さんの顔あたりが分かりやすいです。人間の本質としては週間少年ジャンプで出来ていて、しかしその幼児的な愚かさが叶わないとなるや、「人生を謳歌できないなんて悲しいなぁ」といった一種のナメ腐った痴想に基づく悲しみみたいなものをただよわせるんですね。私はこういったクズを見ると殺意を覚えるんですけど、本当に戦後の高度経済成長の恵まれた時代の環境で好き勝手やらかしたナメ腐ったユダヤ人としか言い様が無いです。この豚共はヒットラー的なものすらを人的資源な要素として使うんですね。結果行われているのはナチスの愚行と同じく酷いナチス狩りならぬヒットラー狩りであって、真面目な人間はどんどんオタクや落ちこぼれに作り変えられたのが前世紀終わりまでの教育でした。私もその作り変えられた人間のうちの一人です。そうやって子供を潰して右翼だろうが左翼だろうが関係なくミクロ経済なマザコンの豚共がのさばったおかげで国は莫大な借金を抱えてボロボロになりました。やってることはナチスと同等に悪質です。
 ニグロの血というのもまた日本人に多数見られるものであって、それはアメリカやヨーロッパの黒人さんの血がどうこうというよりも、日本人においては唇の分厚い嫉妬豚な雰囲気を漂わせているアレな人間が多いです。私は過去、ユダヤ+ニグロが混ざったような下賎なサルみたいな人間を見たことがありますけど、それが物理的な力によるものであろうが言語によるものであろうがあまりに粗暴で暴力的であってまともにコミュニケーションを取ってはいられないです。やはり人間の顔というのはその人間の内面性をよく表してます。

 「顔(見た目)で人間を差別するなんてよくない」というスローガンの下、私の世代は小中学校で教育を受けました。見た目で人間を差別すると「差別だ!」と騒ぎ立てる無知な女子学級委員みたいなのが居たということです。そこには何故か当然の如く「差別はいけないことだ」という方向性を持った思惟が存在しています。「差別」というのはそこにただ存在するものなのであって、田中太郎さんと山田花子さんを区別する違い以上の区別も以下の区別も存在しません。金子みすずの「みんな違ってみんないい」というのはこの痴呆学級委員的な方向性の思惟と逆のベクトルを持った思惟であり同じく愚かしいです。現実は「みんな違う」という差別だけがそこに存在するだけです。哲学者の中島義道さんは差別と区別は違うと言ってますけど、単に区別でしかない差別にベクトルを持った差別性を付与している時点でまた中島義道さんも愚かです。ただそこに違いが存するだけであって、度外な見た目を持った人間というのは病んでいるということです。ドイツ語にはder Unterschiedという名詞とunterscheidenという動詞が存在します。ドイツ語的に考えれば「ただそこに違いが存するだけ」ということもよく理解できるはずです。



 中世のヨーロッパで何故魔女殺すにあたっては方法として十字架にかけて足元から火あぶりにするというものが選ばれたかということに問題の本質が実はあったりします。体のバランスが悪い状態で長時間歩くと足の裏に肉刺(まめ)ができます。痛みが足の裏に発生します。これは体から発せられているサインなんですね。だから少なくともこれについてはその痛みを享受した方が良いということです。よく子供をあやすのに子供の足の裏をくすぐる親が居ますけど、最悪です。絶対にやったらダメです。足の裏にこそばゆい刺激を与えられるとセックス狂である魔女はおそらく喜びます。これは足元を火であぶられることの逆です。ちなみにあの魔女がホウキに乗って空を飛ぶというのは、アレはそこらへんの飢えた男と乱交セックスパーティーを行うということです。「心理学的に言うと魔女のホウキは男根のシンボルでありどうたらこうたら……」という呆けたお言説の前に、事実そういった人間の不幸の源になるようなことが多々行われていたということです。これは歴史上ユダヤ人と言われていた人々が多々行っていたことであり、種々のキリスト教会やAdolf Hitlerという人物はこれの忌まわしさを知り極度にこれと彼らを嫌ったということです。愚かなヒットラーもまた時代の犠牲者の一人だったということです。

 心理学の名を騙って性格判断だかを行って人間にレッテルを貼るユダヤの魔女としか表現しようの無いブタ畜生みたいな老婆は(実在するならば)即刻首を吊って死んでいただきたいということです。首吊りというのもおそらく身体論的に言えば足元から火あぶりというのと同じような感覚がもたらされるものです。

 私はもちろん人工妊娠中絶には反対ですけど、生まれさせられてから虐待されて反社会的な人間になってしまうよりは、まだ母親の胎内で極小の胎児の時点で殺してあげた方が子供の為にはいいと考えてます。が、そもそもセックスなんかしなけりゃいいんですね。レイプは女性と子供は被害者なのであって論外として、快楽でセックスをして子供ができてはい中絶して腹の胎児殺しますとかいってるクズ共は死んでいただきたい。

 新興宗教の類というのは、誰とも付き合いの無い、一人でいる人間を狙ってきます。私も学生時代に新興宗教の勧誘に遭遇したことがあります。もちろん気持ちが悪いんで回避しましたけど。
 こういった連中のやり口というのは、「そもそもターゲット(被害者)が他人を求めていることにする」ということです。一般市民は誰もいかがわしい連中との交際など求めてはいません。こういった連中は「ターゲット(被害者)が他人を求めているという理由付けをあの手この手で行い、洗脳してい」きます。新興宗教にとっては幼児的な人間や未成熟な人間や病んでいる人間の方が自分たちの食い物になってくれやすいので都合がいいわけです。だから新興宗教の主催者は暴力も含めたあらゆる手段でその悪い状態に他人を留めておこうとします。社会に悪徳が蔓延った方がそういったオカルトな連中にとっては都合がいいわけです。オウム真理教もおそらくこういった手口で被害者を洗脳していきました。タチの悪い女とかにもこういった人間が居ます。その根底意識にあるのは、「人間がその人間であるだけで他者に受け入れられる」という「甘え」の意識であり、また「自分が自分であるだけで他人に受け入れられ」ないと彼女らは怒り悲しむんですね。キチガイです。言っては悪いですけどこれはあらゆる意味でのブタっぽい女性に多いです。私の母親はこういった特徴を具えたブタの典型でした。



 男性の場合は性欲は射精したら終わりなんでマスターベーションはストレス解消にいいんですけど、あまり射精し過ぎると体に悪いんですね。三島由紀夫の時代にはecretioと呼ばれて体によろしくないものとされてました。しかし男性は女性を見るとムラムラと性欲が湧きます。自慰行為で女のことなんざ忘れてしまえるテクニシャンならいいんですけど、ほとんどの男性はそうではないんですね。だから女性がストレスの源になったりしてしまいます。だから女性には肌をなるべく露出して欲しくない、というのが正直なところです。見なきゃ性欲も湧きませんから。イスラム圏の人たちはこういったことをきちんと知って社会制度に取り入れているということではないですかね。アラブの春と言われてますけどあまり開放し過ぎるのもどうなのくらいに個人的には思います。
 女性は身体の構造的にストレスを感じやすくまた溜め込みやすいようにできてます。男性のためだけではなく女性自身のためにもそもそも最初から肌は露出しない方がいいです。

 最近は季節的にマスクをして外を歩いている人が多いですけど、体調に不良が無い人でも予防のためにマスクはおそらくいいです。どういった名前で呼ばれているのか知らないですけど、鼻から下を覆うスカーフみたいなものを逆三角形に顔に巻いている人いますけど、けっこういいんじゃないですかね。
the historical present
 歴史的現在(文法用語)。




 西洋の人たちは必死に民族・人種その他社会について論じ自分たちが自分たちが殺し合いながら生きてきた血みどろの記録やそれに関する考えを書き残してます。ところが馬鹿な日本人たるやバーっと本屋なり図書館の書棚なりを見るに9割はオサレな「大人の男」がどうだとかアイドルの頭パーちゃんがどうだとか巷のなんとかよもやま話がどうだとかゴミみたいな人間がくだらないことを書いてるのがほとんどなんですね。

 Judeな人間の書いたものを読んでみると、人(間関係)とか金の視点からひたすら語って論じていて、社会工学的というかシステマティックなものについて言っていることは稀なんですね。しかも人(間関係)を「社会的である」と文字ヅラから勘違いもはなはだしいことこの上なく、これは現代日本の低俗なマスコミ報道に多々見られることです。もちろん近現代社会において金が無ければ人間は経済活動を営めませんから、それについてだけ語ることが間違っているわけではないですし、私は現代のイスラエルに住む人々がどういった社会を形成しているのか知らないですけど、社会というものが如何なるものかおそらくユダヤ人というのはその歴史上ユダヤ人として生きてきた民族意識的にまったく知らないのではないかということです。日本ではマスコミは穢多の仕事、賤業とされてました。私は自分がJudenであったと言いましたけど、生まれてからだいたい三十年の間はそういった人間だったのでこのことについては良く分かります。
 たしか精神科医の木村敏さんが精神分裂病に関する「あいだ」とか「ま」とかいうことについて書いていたと思いますけど、Judeなというと言い過ぎですけどこれは日本人的といえば日本人的な解釈です。

 関係無いですけど、慶応義塾という学校は三田コネクション学校です。そのコネで教授や講師等の教員になる人間には片山善博前総務大臣から能力も無ければ博識でもない週刊誌にブタ記事載せてるようなバッタ商売人までいろいろ居ますけど、ちょっといかがわしいです。



 ヒットラーの"Mein Kampf"が戦後のドイツで禁書にされたというそのところにもまさにドイツの工業性や帝国主義性の名残りが表れて(現れて)ます。大ざっぱに言えば、帝国主義的な考えというのは自分たちの社会システムと社会システムをぶつけ合って相手を倒しそして自分らのシステムの優秀さを証明するというものです。自分たちのシステムの優秀性を証明するためには自分たちのシステム中に敵の要素なんか入れてはいけないというのが帝国主義的発想です。しかし例えばアメリカ人だったらまず敵を知るために一体敵が如何なるものであるのかひたすら調べます。で、どちらが勝つかと言えば当然67年前に世界大戦の勝者となったアメリカです。敵が如何なるものか知っている方が勝つに決まってます。敵がそれであると知った人間にはそれを記録として残したり何らかの情報として味方である他者に伝達することができます。と言うよりは、アメリカというのは汎世界的にmacro economicな国なんですね。今はネットもあるので世界中味方というか世界中の人間が世界市民みたいなもんですけど、前世紀までの戦争だとか様々な人類史上の不幸な出来事は無知にもとづく人間の負の感情から何度も何度も生まれていた惨禍でした。頭がカチコチに固いことが必ずしも良いというわけではないです。


 
 ガンダムのアニメの方よりも富野由悠季さんの書いたライトノベルの方にさかんに出てくる「ニュータイプ」という概念(みたいなもの)は宇宙空間へ出て肉体と同時に精神も依存するものを無くした人間のことです、おそらく。だからニュータイプというのは超自然的に(な)工学的認識を身に付けた人間のことです。シャアが覚醒して汎神的ZEONiズムの神になったらそりゃ当然最強だわな、という話です。無重力空間を嫌というほど体験している宇宙飛行士の人に聞いてみないことには分からないですけど、たぶん「無重力空間において物理的にも精神的にも何物にも依存しない新たなセンスをヒトは身につけた」ということです。
 「与えられた名と共に」どうたらこうたらブツクサと歌うとある日本人の歌が一見胡散臭いようにも見えますけど、実は(名詞的なというか)工学的認識というのは自分の名前というところから始まってるんですね。日常生活をおざなりにしたり「そんなの関係ねぇ」とか「どうでもいい」とか思ったり言ったりする人間というのはまさにここが分かってないんですね。昔SEX MACHINEGUNSの「みかんのうた」という歌がありましたけど、愛媛のみかんはひとつだけということであり、ジュースはオレンジ、お線香は毎日香、ダイアモンドはデビアス、つまりはそういうことです。こういったもの(企業)は、寡占市場における自社の製品の優越性を誇示するが為に宣伝材料に工夫と意匠を凝らし……つまり自分らの商売上こういったことを宣伝しているのではなくて、「なにがどうなっているか」を知っていて、「それ」を宣伝しているということです。哲学者の中島義道さんのような人はこれをいくら説明されても理解できません。ミクロ経済学者の中にもこういった人間が居ますけど、あの人たちはこれを理解できないのではなくて、ミクロ経済学という学問モデルを適用して事象を説明することに職業上のこだわりをみせて「知」的なもの(こと)を無視している、という表現が適切です。浜崎あゆみさんの歌とかじつは結構好きだったりするんですけど、たしかP.S.Ⅱという曲だったと思いますけどこういったことが歌ってある曲がありました。で、統合失調症というのはこれが理解できない人間が多い、というか統合失調症というのはまさにそういった人間を集めて特徴を収集して精神科医が形づくった病気です。これを治すには抗精神病薬という馬鹿につける薬が偉大な先人たちによって開発されたので、「関係なくない」整った環境でこれを一定長期間服薬することが最短にして唯一の道です。だから冨樫なんとかのマンガだとかはこういった点において最悪なわけです。まさに物事一般や自分を取り巻く環境その他について「関係ない」「どうでもいい」というミクロ経済なマザーコンプレックスの人間が描いたそういうマンガです。まさにこの意味において青少年の教育に悪過ぎるということです。半ば面白いからますますタチが悪いんですね。歌舞伎町みたいな繁華街の様相を観察していればよく分かりますし、マンガ等のサブカルチャーもそうですけど、日本にはこういった誘惑みたいなものも多いですし、東アジア的な小汚さみたいなものがまだ多々残ってます。

 このあいだハーグ条約の改正だか分かりませんけど取り決めみたいなものが定められてましたけど、あろうことか日本人と外国人の間に生まれた子供の扱いについて日本人側に引き渡されて一年以上経って子供が順応している(?)場合は外国人側に受け渡し拒否ができるとかなんとかいった内容だったと思いますけど、最悪です。黒人さんたちがこれに抗議してデモを起こしている写真も新聞に載ってました。もし日本の海外に住む人で日本語が分かる人でこれを読む人が居たら是非とも訴えたいですけど、日本の社会というのは子供の生育環境としては最悪です。それに順応なんかしたら反社会的人間コースまっしぐらだと考えて差し支えないです。昔に比べればネットのおかげもあってだいぶ良くなりました。それでもおそらく田舎の方へ行けばまだマザコン人間が幅をきかせてのさばっているところがあるっぽいです。例えば私は4、5歳の子供の頃、幼稚園で強制的にやらされる演劇か何かで舞台の上で保母か誰かが作った「僕は犬ですワン、ワン、ワン」というセリフを強制的に言わされたということがあったんですけど、私のこの個人的経験の内に日本の教育の下劣悪さ具合がよく表れています。小学校に入る前の子供とすら呼べないような子供がこういったことを強制的にやらされるわけです。この保母たちは生きていれば2012年現在50歳~70歳くらいです。今はさすがにこういったことはやっていないでしょうけど、本当にこのあたりの世代は好き勝手やらかしてました。



 Adolf Hitlerという人物は我というか我的なものを排しようとしていた人です。その意味で実にマクロ的です。ただそれについての強迫観念に取り付かれて追い詰められて他民族やユダヤ人虐殺に走ったところが愚かしかったということです。ところがこれを「しかし対戦終了間際になっても総統アドルフ・ヒットラーの支配力やその命令系統は揺らいでいなかった」という解釈をする学者がいますけど、この人間アドルフ・ヒットラーのその人たる由縁を見ているその視点が極めてユダヤ的なものなんですね。この人たちはMein Kampf(「わが闘争」)をおそらく読んでないです。組織感が無いというか、Judenというのは社会工学的意識に全く欠けているということです。その是非については当然非であるとしても、何故Adolf Hitlerが総統であり命令系統の頂点に立っていたのか、ということをシステマティカルな単純な観点から理解できないんですね。私のこの説明自体がJudenにはおそらく全く通じません。しかしかといってヘーゲルの「人倫の国」も逆にマルクスの「産業の現場」もヒットラーの第三帝国も世界中の何処にも存在しません。
 敢えて言うなら、アートマンかブラフマンかといえばヒットラーは確実にアートマンです。カルト宗教の教祖と同じで異常者です。

 ひとまとまりなコミュニティーでも、日本では、「会社に貢献する」だとか「学校の一員として」だとかそういったメッセージを標語的に打ち出すからマズいことになるんです。会社に貢献することも学校の一員として学業に励むこともそれは当然であって、必然的にそういった状態になるはずなんですね。それは物理的に同じ職場環境や教室で同じような行動をするからです。標語や訓告という形で一発目でカマして愚直にもストレートで効くのは大昔の兵隊やくざな男子だけです。女性的な男性にとってもそうですし、特に女性にとってはそれが大きくマイナスの方向に効きます。ものすごくストレスの原因になります。で、私は最近フト思ったんですけど、美形を描くオタク女性というのはそもそもそういった美形的要素を持っている人間なのかと。あまりに馬鹿なやり方で成長期に圧力をかけられるからものすごく歪んで肉体的にも不細工になってしまうのではないかということです。そもそも「絵に慰め的な美形キャラを描く」というのが歪みの現れなのではないかということです。

 売春婦は愛されてしまったら売春婦である社会的価値が無くなってしまうんですね。売春婦は愛されずに男性の性欲のはけ口として存することにのみ自分たちの社会的価値が存在し、また大方の売春婦はそんなことは分かってます。これは私個人の売春婦の人間性無視とかではなくて、売春婦というのは人間性を無視され同時に"人間性 ist......"なるものを無視している人々なんですね。だから「愛されては困る!」や「ヤったらさっさと帰って」という態度を客にきっぱりと示すことが、映画とかであるのか知りませんけど、文学や漫画で描かれているんですね。そういった商売を行っているからすれっからしになってしまっているというマンガ的解釈は全く間違ってます。売春婦は人間として見られたら社会的価値を失い売春婦としての価値が無くなってしまうということです。つまり川端康成の「雪国」の主人公みたいな売春婦すらも慰めに愛す女垂らしの馬鹿はその意味で非常に不健全であり社会的な禍を巻き起こすものであり何より売春婦自身に最もウザがられるということです。人間性を無視された売春婦は当然現代では居なくなりましたし(法律で禁止されてます)、人間性を無視する売春婦が居なくなったということは社会が良くなったということです。



 田舎社会へ行けば行くほど人間をその能力と共に押しつぶす環境がご丁寧にも整っていたり暴力的マザコン人間が幅を利かせていたりします。というのは人の上に立つ人間に馬鹿の比率が増えてそれがまたそういった馬鹿に媚びるという人間関係が構築されている原因になっているというだけではなく、知力や問題解決能力や仕事能力ではなくその漠然とした人間関係とやらが場のコンテクストを支配する社会がそこに構成されているからです。面倒見の良し悪し等について言うのならば、そんなもの当然面倒見のいい人間の方が良いに決まってますけど、私がここで言っているのはそういったことではなくて実存しない「人間関係」なるものが場を支配したらその場は即崩壊に向って秩序とは逆回転を始めるということです。
 これの結果誰が最も被害を被るかというと、女性です。雌性の肉体を持っているヒトたちです。その次に子供です。子供の目の前で男性が女性を嬲るという絵を見せるとかいったのが最悪です。もちろんだから田舎社会ではユダヤ的家父長制度偏重的な、そこに特定の具体的ルールはあって無きものの様なある特定の人間が暴力で他者を支配するというマザーコンプレックスな社会環境が成立してしまうということです。

 マスコミの垂れ流す情報がレベルが低くてその低俗さや俗悪さよりもそのレベルの低さに万人がイラつくのは、昔の記事でも言ったようにマスコミというのはイナカ者の集まりだからです。高等学校までグジグジした田舎社会で過ごして(過ごすことを余儀なくされて)、それで大学で東京へ出てきて頭のいい子供だと早稲田大学あたりへ入ってヒャッホーして調子に乗っちゃってそのノリでマスコミとかへ入っちゃったというのが今の50歳代や60歳代のオッサンオバサンたちに極めて多いということです。私が田舎は好きだがイナカ者は嫌いだと言ったのはこういうことです。田舎の環境の良さを全く分かってないんですね。それは自然環境だけではなくて人的な環境においてもそうであって、その場を構成する人間がみんなreadの能力が低くてコンテクストを読めないから気をつかって気苦労をする必要が無いということです。田舎の学校は高校も大学も英語の試験なんかメチャメチャ簡単になってます。国語である日本語もそうです。いわゆる「イナカ者」というのは広義の意味・あらゆる意味でのreadingの能力が低いです。昔の人間はそこで東京へよっこらせと出てきて空気を読むことを覚えてから勘違いして調子に乗っちゃうことが多かったということです。太宰治なんかコレの典型です。日本のマスコミの人間たちは社会的コンテクストを読む能力が無い、つまりは「空気を読めない」分際でマスメディアとかで自分らが社会の中心に居るかのように振舞ってるのが一般人から見ればクソがつくほどウザいということです。不良少年の如くやたらと社会不安を煽って、日本のマスコミはレベルが低いどころか社会に悪い影響を与える方向を志向しているんですね。NHKとて同じです。50歳も過ぎたような化粧と映像修正でアイドル気取りの腐敗臭のする女キャスターが「識者にお話をうかがう」夜のNHKのドキュメンタリー番組はこの現代日本におけるマスコミの百害あって一利なしの社会不安を煽るだけの低レベル報道の典型です。

 単にreading能力が高いだけの人間を指して「勉強してない」だとか決め付けるのがこういった人たちの何よりの欠点です。「あいつは男や!」とか「あいつは女や!」とかいうのも同じです。広義の意味での勉強なんか誰だってしてます。ヒトだけではなくておそらくどの哺乳類も自動的にそういったものを学習していくように出来てます。勉強の仕方が内容によって違うということです。誰だってコンテクストを読んでるんです。reading能力が高くてコミュニケーションが上手い人間を指して「あいつは女や!ぜんぜん勉強せえへんぜんぜん知らへんくせに分かった気になっとる!」というのは早計です。これが嫉妬ではないことは少なくとも私は知ってます。こういった男性的というよりはイナカ者的な人というのは早計過ぎるということです。だからすぐキレる不良少年たちは某巨大匿名掲示板関連みたいなそういう連中にバカにされるんです。そういう連中がもしコミュ能力だけしかなくて物事知る能力が無かったら他人をバカにすることすらできません。中には本当に物事も他人も嘲ってナメ腐ってる奴が居るかもしれないですけど、たいていの人間は別に舐めてるわけでもなんでもないですね。

 不良少年のことを日本ではそれが日本人であってもヤンキーと呼びます(呼ばれてました)けど、例えば私はヤンキーとかチンピラとか不良とかいう言葉を全て一色たんの意味合いとして使ってました。というのは日本(人)であるにもかかわらずアメリカのTexasのYankeeと同じこと・ものを志向しているのが滑稽な上にそもそも間違っていると考えていたからです。しかしこれが間違ってたんですね。彼らはそれを志向しているというよりは、Yankee・ヤンキーというものによって表される一種人間工学的な発想に基づいて自分らという人間を志向して(させて)いたというのが正解のようです。一つの具体的定常情報から全ては始まっているということであり、固有名詞的なものの考え方(?)、固有名詞を重んじる、「知」的である、というのはおそらくそういうことです。唯名的というと語弊があります。というのは唯名論というモノとモノとのつながりが分からない、Dinge an sichを強引に人間が認知しうる情報化したような知的障害めいたものがあるからです。つまりはコンテクストのreadの能力が高いとマザーコンプレックスな妄念から「読了」してしまう傾向へ人間誰しも走りやすいということです。
 Judenというかスキゾの気が強い人間というのは過去志向であって、普通の健常人は未来志向であるということが言えそうです。過去志向の人間というのはコンテクスト(いまに連なる過去・経験された事象)を読むのが上手いです。ちなみにこういったreadの能力が高い人間というのはネットの掲示板見れば分かりますけど嫌な奴が多いです。私もずいぶんと長い間一人よがりの嫌な奴でした。



 過去の出来事を考察するにおいて、それを眺めるにあたってレンズにいま現在の自己というフィルターをかけてしまう、それを行わないように意識しないとそうしてしまう、このことが既に病的なんですね。事象Aは事象Aであって事象A以外の例えば事象Bではないです。時間の流れは過去からいま(未来)であって、それでこそヘーゲル的に言うところの宗教・芸術も自己(Dasein)として成立するのではないかということです。鏡を見て「これが私か」、と。"Spiegelin, Spiegelin an der Wand......"と鏡に話しかけて自己像にフィルターをかけるどころか故意に歪めるようでは悲惨な分裂病コースまっしぐらです。だから精神病者には女性が多いです。



 歴史が技術を与えてくれたと考えると妥当です。マクロ経済学とか少し勉強すると分かりますけど、どう考えたってやはり近現代国家という社会システムにおいて最も重要なのは技術革新です。あらゆる技術のおかげで脱工学的な社会生活を少なくとも現代日本の都会では営むこともできます。とくに首都圏に住んでいる人間は見失いがちですけど、これは当たり前のことではないんですね。
walking discord
 ビジュアル系のなれの果ては秋葉原のロケット。




 RPGとかやってると「溜め」るクセをつけさせられるんですね。これはドラゴンクエストであろうがファイナルファンタジーであろうが任天堂やSONYの最新の機器を使ってプレイできるゲームであろうが同じであって、状況に応じて現実世界では有り得ないようなダメージを食らいながら「血を流しながらも進んでいかなければならない」というような状況をモンスターとの戦闘その他によって何百回何千回と刷り込まれていきます。ギャルゲーやエロゲーの類はRPGよりもっとそうです、おそらく。これはあまりにも露骨過ぎるサブリミナルです。物事の学習能力が阻害されて、子供の場合だと学業に弊害が出てきたりします。フィールドの移動でもダンジョンの踏破でも流れを進行させていての阻害物(モンスター)の出現や戦闘中における敵の自キャラへの攻撃その他で、いちいち流れが阻害されて「溜め」させられるということです。だからこういったゲームばかりやっていると本なんか内容の筋の流れに沿ってスラスラと読めなくなったり映画やアニメ等の映像でも見ていてコンテクストを認識する能力に障害が発生してしまうんですね。あともう一つはモンスターの絵ヅラ的に「記憶してしまう」ということによる弊害があります。プレイヤーはあの手この手で画面に映し出されているその絵ヅラを攻めます。これを何百何千と繰り返しているうちにその「絵」とその「責められ具合」を記憶していってしまいます。二十歳もいくらか過ぎた大人になってからためしに「あっ、ゲームってあるんだ、やってみよ」とかいったノリで携帯とかでやってすぐ止めるくらいの人ならいいですけど、10歳にもならないような子供のうちからこれに浸されきっている今の20代から40代くらいまでのオッサン達の一部の人間がこのサブリミナルにやられていて危ないんです。何がかと言えば本人たちが危篤状態でアブないということです。これはNPCでも同じなんで、つまり動画サイトとかで見ているだけでも危険です。ギャグ線や定時アニメのオープニングのようにアニオタロマンスな感じで狙って視聴者を引き込もうとしているような動画が最も危険です。
 これに洗脳されていくと、何をするにもどんなくだらないささいなことでも一呼吸置くようになります。「ちょっと咽が渇いたから台所へ行って水を飲むか」程度のことでもそれを行う前に一呼吸我慢しなければならないという強迫洗脳めいたものに掛かります。自分で自分に対するストレスを作り出すようになるということです。ユダヤ人化です。最悪です。「マザーコンプレックスの人間というのはマザーコンプレックスの生活環境や社会環境を作り出す」というのはこういうことであって、つまりゲーム製作者も強度のマザーコンプレックスの持ち主であり、いうなればその強度の「マザーコンプレックスな正体不明な何か」が宿ったモノを使用しているとその利用者もどんどんそれになっていくということです。オタクの人々は幼い子供の頃からこれに侵食されきってきて徹底した他物依存の状態になってしまっていて自分で自分がどうなっているかということに気付かないまでにやられてしまっているということです。これが「ちょっと歩き過ぎたから休むか」という類のこととなると非常に危険です。休憩が不可能になって無理をしている状態が当然であるという強迫観念に取りつかれて肉体を壊します。だからオタクにはもう見た目から体の悪そうな人間が多いです。

 ちなみにギャルゲーとかエロゲーはアレはオタ女子がやればいいんです。おそらくたぶん男性におけるRPGモンスター客体的自己同一化のような現象が起こります。だから女子が自分にとって理想的な男を主人公としてコントロールして絵ヅラで表されている客体的に自己と同一化されたアニメ女子を満足させるという実に理想的なものがそこに出来上がって画面の前のプレイヤーも満足です。
 男はゲームなんかやらずに黙って即物的にエロ画像を見てストレス解消しときゃいいんです。



 私はそもそも「ストーカー被害にあっている」ということで精神科クリニックへかかり始めました。そして「ストーカーを認知してしまうことが統合失調症の症状だ」と言われて投薬を開始されました。その当初はN医師に商品名ジプレキサと商品名パキシルと商品名ルボックスを投薬されました。

 ストーカー自身が被害者を装うこともできない、被害者であるターゲットを加害者に仕立て上げることもできない、そして先の記事で説明したようにターゲットの保護者であるかのように振舞うこともできない、となると、今度は「被害者(私)が行った行動のうち連中とは全く関係の無い行動についてそれが連中と関係あるかのように見せかけてくる」ということを行ってくるんですね。
 例えば、私が先述のN医師のクリニックで診療を受けるにあたって、私とN医師は診察室内で会話をします。そしてそれが終わってクリニックの建物を出て直後に、「まるで私とN医師との診察室での会話の内容を聞いていてそれついての意思を表明するかのようにありがとうございますと言わんばかりにまるで私に礼を言うかのように頭を下げてきた女」その他が出現するんですね。ただ一度のことではなく、何度も何度もです。もちろんこれは何回も何回もサブリミナルをかけるべくあらゆる人間を使って行ってきているということです。帰りの電車の中での雑談を装った二、三人組であったり、見も知らない人間が敬礼をしてくることであったり、そもそも診察室で待機している特定の示唆的な会話をしている患者であるはずの人間であったり、色々です。

 で、今やこれについて精神科医N医師に話すとニヤニヤしているという有様なんですね。答えを言うと、当然の如く精神科医とこれらストーカーはcollaborateしています。少なくともこのN医師や厚生労働省管轄下の国立病院の医師であったはずのM'z a 悪意 (仮称)医師が実在するとすると、どちらも犯罪者です。島見図広吉(仮称)のようなクズのチンピラは実在するとしても万人から見てクズであることが即分かるほどに分かりやすいので対処するにおいて問題は無いんですけど、特に後者に関しては極めて悪質なので一刻も早く警察の人には捕まえていただきたいとお願いしたいところです、非常に高い確率で被害者は私だけではないので、実在するならば。



 他には、ここ数ヶ月間だと、窓の外で私についてしゃべっている(演技をしている)小学校低学年くらいの子供の声がします。例えば私がこのブログの二つ前のHide your face.という記事に、「玄関の鍵を故意に開け放すという嫌がらせを行う自分の母親」について書いたものを加筆の形で載せたのは2012/02/09日です。その翌日である今日2012/02/10日に家の外で「玄関!」「鍵を締めないのはなんとかなんとかでなんとかじゃーねーか!ギャーギャー」という7、8歳の子供の声がするんですね。日が暮れてから夜の8時や9時にそのくらいの子供の声がすることも多々あります。まあ中学生とかだったらブログでこの文章を見て「ああ、どっかのイタいオッサンがいるよ」ということでキャッキャウフフと悪口を言うくらいなのも分かるんですけど、10歳にもならない子供はこのブログの記事を見ても内容を理解できません。にもかかわらずそれが単なる子供の悪口であれ私を何処の誰であるか特定してその私に物理的に接触してくるという行為が成立するためには、誰か特定の大人からの子供に対する情報提供と指図が必要となるんですね。だから犯罪者集団がストーキングに10歳にもならない子供を使っているということです。最悪の反社会的行為です。いい年をした大人の自分らは犯罪者や悪人扱いされるのが嫌なので出ては来ずに子供に犯罪行為を行わせているということです。あの犯罪行為に加担させられている幼稚園児くらいの子供たちはどういった大人になるんですかね?犯罪者コースまっしぐらです。



 精神科医はそもそも患者を取り巻く社会的状況について、その問題を解決する能力も権限も持っていません。分かりやすく例を挙げると精神科医は無職の患者に対して就職の斡旋を具体的に行う能力は持っていないということです。だったらば、精神科医は患者が相談しない限りにおいて精神の病気を治療すること以外に患者を取り巻く社会的状況その他について口を出すなということなんですね。何を調子に乗っているんだか知りませんけど、患者を取り巻く(社会的な)状況のうち患者本人がそれを改善できないようなものについて問うてそれを改善すべきだと言ったり、さらに腹立たしいのは故意にそれについて患者に対して質問をして、患者がそれについて何か答えると「○○(それ)だとなにかあるんですかぁ~?(↑)」とワザとマンガ的なブタっぽい声と抑揚の調子で言うという殺意を抱かせる程に相手の怒りを掻き立てるというものがあるんですね。これは私は公共の役所でも一回やられたことがあります。初対面の見も知らない相手に必要に迫られるわけでもなくベラベラと自分のプライベートなことについて話すわけがないんですね。で、こういった連中・精神科医が患者が何か(医療的な)援助を求めた時に何か具体的な対応策を施すかというと、何もやらないんですね。精神分析家(医)の人たちはまた少し別だと思いますけど、精神科医の能力というのはとどのつまるところ患者に薬物を投薬することだけです、この日本という国の現状では。

 昔は自分が子供を育てる能力が無いと考えている人間に強制的に結婚をさせるようなとんでもないふざけた人間が居たみたいです。これは上の精神科医の場合とは逆のベクトルを持っている同じくマザーコンプレックスの人間です。くっつけ屋というか、アタマモジャパーのウザいおせっかいなオバちゃんとか想像してもらうと分かりやすいです。当然この行いはレイプです。こういう逆レイパーなオバちゃんは今でもちらほら居ますけど、例外なくマザーコンプレックスの権化です。こういった幼児的博愛主義もまた無政府主義的な快楽主義と相まって災禍の元凶になってるんですね。子供を欲しがる健全な人間だけが子供をつくるようにすれば、昔だったら疫病や戦争、現代であれば税金を投入しての雇用創出や不良な職業の出現、ということも無くなるわけです。マルサスみたいな豚畜生の馬鹿はそこらへんの避妊した売春婦とでもよろしくやってりゃいいんですね、人間というものがそうであるというのならば。



 私の家の近くには関西ヤクザが経営する巨大な本屋があるんですけど、もう「書店」というものがこうでもしないと存続できないんですね。別に本屋さんがあっても何も問題は無いですけど、誰も買わないような駄本しか並べるものが無いんだったらそもそもそんな需要の無いものは無くなるはずです。あんなもの並べるくらいだったら高価であっても学術図書が置いてあった方がいいです。

 ちなみに本物のヤクザというのは見るなりもの凄くコワイです。そこらへんのチンピラの若者や珍走バイクのイタいお兄ちゃん達とかについて「ああ、アレはチンピラだな」ということを分からせてくれます。私は繁華街へはほとんど行かないので、10代の時に新宿や渋谷の人口密度の濃い場所でパンチパーマのいかにもなオッサンを見たことがあるような気もするんですけど、言っちゃ悪いですけど私みたいな一般人から見るとああいうのはマンガのキャラクターとして出てきそうな人です、が、そうではなくて本物のヤクザは二十一世紀に入ってまで露骨なまでのリーゼントヘアーと剃り込みでガチッと決まっていて見るだけでもの凄くコワイです。その人は身長が190cmくらいありました。私は家の近所の歩道でウワっと思って少し見たら「なんや!(→)」と関西弁で声を掛けられました。本物はおそらく誰でもパッと見で「あ、」と思うのですぐ分かります。



 関係ないですけど、今になって思うんですけど、私の高校の卒業アルバムの写真はすさまじい妖怪変化みたいな顔で映ってるんですけど、「ウソはウソだと分かる人間でないと……」と昔言っていたどこかの掲示板の元管理人さんの顔が非常に似てたりしますけど、さすがに私もあそこまでひどい顔はしてないんで、アレは誰かのイタズラですね、人権侵害もはなはだしい。やらかした人間は当然刑事的に訴えられて然るべき問題です。中学のアルバムはぶっ壊れたフル笑顔で映ってますけど、アレは本物です、心底笑うと私はああいった顔になるんで。同級生の男子学級委員が写真屋がシャッターを切る瞬間に笑わせてくれました。



 ところで最寄り駅にて常に「ちかん出没中」という看板が出ているのを見るんですけど、アレは何の効果があると思ってやってるんですかね?そもそも痴漢なんかやる人間はそんなもの気にしてやらないハズがないですね。ちなみに現代日本で痴漢なんかやったら一発で警察に捕まります。痴漢冤罪も一発でバレて捕まります。2012年の現代日本におけるこの看板行為の結果としてもたらされるのは、いたずらに当該施設の利用者が不安を煽られているだけという社会的死荷重がもたらされて豚が増えるだけの最悪な結果に終わるものです。
 アメリカの政治家は法律も経済学も共に学んでいる、日本の政治家は法律についてしか学んでいない、という場合がよろしくないことに定説のようになってしまっているらしいです。私はミクロ経済学の悪口を多々書いてしまいましたけど、どんな小さなことでも日本の社会に観察される諸々のことを鑑みていると、如何に日本人の思考や場対応が未だに非経済学的で杓子定規な個々の具体的な出来事をそれとして考えていない非効率なものであるかがよく分かります。残念なことにはやはり日本人は頭が悪いということになってしまいます。

 いわゆるワルというのは健常な一般市民がまともな道から足を踏み外すのを今か今かと渇望しながら待ってます。残念ながら私が行った高校には少数ながらこういった「ワル」が居たうえに私も足を引っ掛けられたことがあるのでよく分かるんですけど、自ら一般人に危害を加えて引きずり降ろすというゴミクズも居ます。ああいった連中の集まりには参加した瞬間に連中はその人間を「ワル」属性だとみなすので即危害を加えてきます。中でツバの吐き合いをやっているということです。ネットでも昔の掲示板の荒れ方とか見るとよく分かります。だから最初から絶対に参加したらダメです。

 本当に有害なのは「ダメな人間」ではなくて、「他人をダメにする人間」なんですね。だから私はヤーさんみたいな人たちがイコール直結して絶対悪だと言っているわけではないです。性格判断だかで他人にレッテルを貼ってるようなキチガイは「他人をダメにする人間」の典型です。たいていの場合では「他人をダメにする人間」というのは「ダメな人間」と非常に高い正の相関を示してますけど、中には「ダメな人間」ではないのに「他人をダメにする人間」というのが居るんですね。悪い方向を志向しているのに自分で自分に嘘をついて、全くその悪い方向性の自覚が無い状態の人間たちです。いわゆる「アカ」です。「悪い奴でも実はいい奴もいる」という発想がこれの典型であり、これの持ち主もどんどんアカに染まっていきます。伝染します。これが有害であり最高度に危険なんです。これは共産主義的な人間やJudeな人間に多いです。これは赤やrotといった情報として具体的な意味合いだけではなくて、おそらくはそういった人間を指してaka(アカ)と呼んでいたということであり、戦時中にはこういった人間に対して赤紙というのがよこされていたのではないかということです。

 この日本という国の人間は皆「嫌だ、嫌だ」と言いながら生きます。それの原因となるマザーコンプレックスに火を付けている人間がいるんですね。残念ながら右翼の一部にはびこるチンピラがそういった元凶となっています。アニメ「機動戦士ガンダム」の原作者もおそらくそういったチンピラの一人です。オタクがみんなコレにやられた、というかコレにみんなやられてオタクになったんですね。子供のアニメであるうちは良かったが、商売のタネにされて変哲な利用の仕方をされてしまってからおかしくなったということです。



 人間の行動において問題となるのは、全ては養老孟司さんが「唯脳論」で語るような二者択一の問題です、物理的に、肉体的に、唯脳的に。やらないか、やるか、(やるか、やらないか、)という問題。顔左向け、顔右向け、という問題。

 養老孟司さんの顔を見てみるとものすごく豊富な白髪で白人的な顔をしてます。



 ところで足の無いジオングを下から見るとハートマークをしてるんですねえ。キモいですねえ。
caduceus
 IQ215。




 私が「全ては『やらないか、やるか、(やるか、やらないか、)』という問題だ」とかそういうことを言えてしまうのは、もちろん大幅にストレスを解消して、またストレスの源となる記憶を言語化して記述することによって消し去って、そして抗精神病薬を使用したことに因ります。精神科医との面談や会話なんてものは下手をすると狎れあいでありストレスの源でしかないので、あまりかかずりあわずに薬だけ出させておけばいいんです。



 例えばaを定数とする時、a=aという式に反証することは不可能です。私は先の記事でE=mc・cが当てはまらないNichtseinがどうこうと言いましたけど、あれはそれこそジンブン科学的に比喩表現の道具としてE=mc・cという式を用いただけです。私は物理学の専門家ではないので断言はできませんけど、これはおそらくS=k・logWを用いたとて同じことです。科学性とやらの定義がfalsifiability(反証可能性)に立脚するものであるとするならば、カール・ポパーなる人物の定義した「科学性」とやらは全くナンセンスなものであり、「反証可能性」こそがあっさり反証されます。敢えて皮肉めいた表現をするのならば、それは科学性ではなくて科学哲学性です。

 しかし、「最終地点であるとある真理に到達した」という新興宗教の教義めいたものが、間違っているというのは正しいです。というのは、デカルト的発想がまさに人間の掴みうる真理の限界であり、ヘーゲルの言葉を借りてきて説明するならば「対象が自体的に在るものを概念と呼」んでる時点でそれが人間の限界であり「対象の自体と他者に対する対象の存在とが同じものであるということがある」ということだからです。いくら愛する特定の他者が存在してもその人間と一つにはなれません。どう試みたところで人間においてそれがいろいろな意味で陳腐だということでも。

 仮にあるパラダイムにおける技術革新の具合を何らかの特定の基準に基づいた具体的な数値として計ることが可能であるとしても、それは「真理」ではなく科学的事実に基づく具体的な何かです。falsifiabilityという名の「真理には到達し得ないという真理」を振りかざしていたところで、一つ次元を繰り上げているというと聞こえはいいですけど、そうではなくて単なる秩序からの逃避です。
 オタク文化で言うところの「萌え」というのも現象的にはこれと非常に似ています。商売をする側の人間達は「萌え」うる具体的要素を商品であるアニメその他のキャラクターのうちに散りばめておき、そこからは悪質なユダヤ的義務教育によって想像力・妄想力をたくましくさせられてしまったオタクの人たちが萌えるにまかせておけば儲けられるというわけです。これは原理的には金貸しで儲ける手法と極めて似ていて、非常にユダヤ的なやり方です。



 ところで、2012/02/10日に一つ前の記事で「私に物理的に接近してこのブログの内容についてギャーギャーと文句を言う子供」について書きました。「小学生まで私が書いたものに対する示唆を行うように指図(強要・勧誘)されている」という内容です。また私はこのブログでずっとストーカーとその演技とその被害について書き連ねてます。そして私の父親が2012/02/11日に私に直接話しかけるのではなく私以外の家族と会話中その場の会話に参加してはいない第三者(つまり私)に故意に聞かせるように「~なんとかなんとか子供はなんとかではない!」と、もはや事ここに至っては笑いながら誤魔化すように言いました。そして2012/02/12日、父親は私が睡眠している間に、「~なんとかなんとかは、演技では、ない!」と私の部屋のドアのすぐ前で故意に聞かせるような大きな声で言いました。当然この発言自体が私の父親の演技であり、「演技ではない」という発言をすることによってストーカー集団のストーカー行為たるものも私の父親のその行為(発言)がストーキングであることも彼は証明してしまっているということです。ちなみにこの父親警察が恐くて近寄れません。立派な犯罪者です。
 ちなみに2/10日にその小学生についてのことを書いてupしてから2/11日と2/12日には子供の声がピタっと止みました。子供に情報を与えてもしくはそれに加えてストーカー行為の指図をしていた大人(特定の犯罪者集団)は、私SSに対する加害行為を行っていたということであり、同時に私が被害について書いた2/10日の記事を見て子供に逆の内容の指示をした可能性が高いということです。

 で、私の父親というのはコレは強姦魔なんですね。おそらく多くの人様の恨みを買ってます。先の記事で「若い女のような男」だとか「他虐性嗜好のサイコパスのキチガイ」だとか書きましたけど、少なくとも対人関係においてはそういった人間です。女性的なマザコンの男というのはレイプが大好きです。というのはおそらく女性的であるが故にレイプされる女性の苦しみを普通の男性に比べて分かりやすいからなんですね、特にこういった他人を危害を加えて虐待することを好む異常者においては。上で書いた私に対する行動(言動)は、「お前は何をされても何も感じてはいけないんだ!」というレイプを行っているということです。現代でこんな療治が効く大昔の兵隊ヤクザな人間はおそらく居ません、少なくとも私は違います。ちなみにこの父親、女性には業火の如く嫌われてます、一発カマして修正してやろうという発想以外にも男性に対してすらこういった自分のエゴを押し付ける部分をも持っている人間だからです。そしてしかしこんな人間の言うことを他人様が何でもはいはいと聞いてくれるわけはありません、というのは他人は他人であって彼ではないからです。よってこういった人間が何をターゲットにするかと言えば、身近な近親者なんですね。親族ならばこういった自分の「甘え」も受け入れてくれるだろう、という舐めた期待を抱くわけです。このエゴイスティックな部分が非常にアベラール的であって、少なくともこの点においては愚かです。その親族と言えど加害者とは別の人間なのでナメた人間の「甘え」なんざ相手をしてはくれません。私の父親は私が子供の頃から異常者として親族に嫌われていました。異常者だからこそ豚みたいな女としか結婚できなかった、結婚してしまった、ということです。

 コンテクストを全く読まない、ではなくて、コンテクストを全く読む能力の無い、という我々が使っているパーソナルコンピュータのような機能のみを持つロボットのような人間は世界中何処を探しても存在しません。そういった人間は人間として機能していないので世界中の何処を探しても居ません。白痴と呼ばれる人たちや知能に障害を持っている人たちでも何らかのコンテクストを読む能力は持っています。赤ん坊ですら場のコンテクストを読んで泣き叫んだり笑ったりします。
 ちなみにヒットラーはこのパソコン的人間とそれによる社会の構成を目指した人間です、が、当然Adolf Hitlerさんも人間だったので失敗しました。マルクスは阿呆というと言葉が悪いですけど単なる夢想家です。



 左か右かの二者択一というと抽象的過ぎて何を言っているのか分かりにくいですけど、身体のバランス的に左でも右でも定常状態からどちらへ傾きやすいかといったことや、赤ん坊の場合であれば「泣く」か「笑う」かの二つのうちどちらか一つの行動しか取れないとするとそのどちらを選択して行動を取るか、というお話です。

 身体のバランス的に右方向のとある一点においてそこを定常点を仮定します。人間は誰しもヒトの胃の構造に基づいて肉体的な意味で外部的なあらゆる力によって左方向へ釣られて動きやすい、流されやすいです。逆に言うとそれはとある特定の状況における運動能力の高さであったり、コミュニケーション能力の高さであったりもします。右の定常点においては人間は何も感じないロボットでありコンテクストを読む能力を全く無い状態になり得ます。よって右の定常点においては人間は他者の自分に対するストーカー行為も認知することはありません。しかし、人間はロボットになることは不可能である、つまりコンテクストを全く読めなくなることはないのであって、危害を加えられたならばそれを感知してなんらかの手段で意思表示を行います。

 お話であるというのは、ヒトの脳のどこかに左のベクトルを設定するか右のベクトルを設定するかというadministratorな機能を司る能力があるということです、おそらくは。


「 これに対し、物質は存在する物ではなく、一般的な存在としての存在であり、概念という相での存在である。だが理性は、なおまだ本能であるから、この正しい区別をするにしても、すべての感覚的存在において法則の実験をするちょうどそのときに、たんに感覚的であるにすぎないような存在を廃棄していることを意識していない。理性は、感覚的存在の諸々の契機を物質として把むとき、それらの契機の本質が、一般者となり、この物質という表現において、それらが感覚的でない感覚的なものとして、物体的ではないが対象的である存在として、言い表わされていることを、意識していない。
 さてそこで、理性本能にとってその結果がどういうふうに転回するか、そのため、その観察がどんな新しい形をとって現れるかが、明らかにされねばならない。この実験する意識の真理としてわれわれが見るのは、感覚的存在から解放された純粋法則である。つまりわれわれが見るのは、この法則が、感覚的な存在のなかに現存する概念である。が、この概念はこの感覚的存在のなかで、自立しており、制限を受けずに動いており、その存在のなかに沈められていながら、それから解放されており、単一な概念である、ということである。このものは、ほんとうは結果であり、本質であるから、いま、自らを意識に対して現れるといっても、対象として現れるのである。しかも対象は、意識にとってはまさに結果ではなく、その前に来る運動に関係しているのでもないから、特殊な種類の対象として現れるのであり、この対象に対する意識の関係も別の観察として現れるのである。」


 これは再びGeorg Wilhelm Friedrich Hegelの"Phänomenologie des Geistes"(「精神現象学」)という著作からの引用です。ここで「純粋法則」を世界(da)から解放されて自立的に動いているとしているところがヘーゲル先生の先生たる由縁であるというか、ちょっと怪しいところです。ヘーゲル先生はこれを説明するのに数学を使えばよかったんですね。二次元平面上で考えるにおいても、マクロ的定常線を曲線でも直線でもいいので考えてみればいいんです。多分どのような一線を規定してもそれ自体で交差させない限り(?)数式で表現することができます。中学校一年生の一番最初の数学の授業でやると思うんですけど、点は場所は示すが長さや面積を持たない、線は長さは示すが面積を持たない、面は……というやつです。
 つまり、私の父親やAdolf Hitlerさんは、「純粋法則」が自我(Dasein)として存在するに違いないと言っているヘーゲル先生への"Nein, "という否定句を、作り出されたものであるに違いないと思われるDaseinへのアンチテーゼとして現実世界で作り出し返そうと無駄な試みを行っている(た)ということです。人間がヒトという種の哺乳類である限りにおいては、「自慰やめますか?それとも人間やめますか?」という問題が存在するということです。

 以下つづき。


「 概念の単一態の過程を自らにもっているこのような対象は、有機的なものである。有機的なものはこの絶対的な流動である。そこでは、有機的なものが他者に対してもっているにすぎないような規定態は、解体してしまっている。非有機的なものは、規定態をその本質としているため、別の物と一緒になって初めて、概念の諸々の契機を完成するものであり、したがって動きに入るとともに消えてしまうものである。が、これに対し、有機体にあっては、これを他者に対し開いている規定態は、すべて有機的単一な統一のもとに結ばれている。ここでは、自ら自由に他者に関係するようなものは、本質的なものとしては現れないから、有機体は自らの関係自身のなかで維持されている。
 ここで理性本能が観察しようとする法則の両面は、さしあたり、いま言った有機体の規定から当然出てくることだが、相互に関係し合っている。有機的自然と非有機的自然とである。非有機的自然は有機的自然に対するとき、後者の単一な概念に対立した自由であり、制約のない規定態の自由である。この規定態にあるとき、個体的自然は、解体されていると同時に、この規定態の連続からは分離して、『自分だけ』である。―中略―このように、両側面が互いに自由であるため、鳥や魚の本質的性格をもった陸棲動物も『現に存在』するなどということがある。必然性と言っても、存在するものの内的必然性として把握されうるわけではないから、感覚的定住をもつことを止めてしまい、現実性においてはもはや観察されないで、むしろ現実性の外に出てしまっている。だから、必然性は、現に存在するものそのものにおいては見つけられないので、目的論的な関係とよばれることになり、関係させられたものにとっては外的であり、したがってむしろ、法則の反対であるような関係となる。必然性は、必然的な自然からは全く遊離した思想であり、この思想は必然性を捨て去り、必然性を超えて自分だけで動いている。
 これまでのべたように、有機体と有機体の生活の場となる自然の関係は、有機体の本質を表現していない。ところが、この本質は目的概念のうちには含まれている。なるほど、観察する意識からすれば、目的概念は有機体自身の本質ではなく、この本質の外にあり、したがってさきに言った外面的で、目的論的な関係であるにすぎない。けれども、有機体は、前に規定したとおり、実際には、実在的目的そのものである。なぜならば、有機体は、他者との関係のうちに自己を維持するものであるため、その本性が概念に帰るような、自然的存在にほかならないからである。また、有機体は、原因と結果、能動と受動というような、必然性においては分離された契機を一つにまとめている。そのため、ここではあるものは、必然性の結果として立ち現れるだけではなく、自己に帰ってきているため、最後のものつまり結果は、運動を始める最初のものでもあり、また自分にとって、自分が実現する目的でもある。有機体は何かを生み出すのではなく、自分を維持するだけである。言いかえれば、生み出されるものは、生み出されると同じように、すでに現存してもいるのである。」


 とある主体に対して「法則の反対であるような関係」である必然性が存在するわけがないです。つまりヘーゲルは自我の必然がDaseinではなくDinge an sichだと言いかけてるんですね。こう規定して人間存在をそういうものであると消化してしまうということは非常にアブないことです。ヤバいです。ユダヤ人化が歴史の流れにおける人類の必然だと言っているようなものであって、非常に危険です。
 精神分裂病患者において、妄念として「法則の反対であるような関係」である必然性(という誤認)を認識していながら何らかのきっかけで急激に「(非有機的な)規定態の自由」「自分だけ」な状態に(完全ではないにしても)立ち帰った状態になるということがおそらく精神分裂病の陽性症状です。云わば「関係」を何らかの外部的な力によって断たれた時、そこに一挙にDaseinが現出するということであり、それがヘーゲルの言葉を借りると「法則の反対」のさらには反対であるため、また「動き」を奪われた状態であるため、あまりにも異常に「感じ ら れ る(gefühlt sein)」ということです。分かりやすく言うと、「鏡よ鏡……」と毎日自分の顔を美しいと思い込んでいたブサイクなオバさんがある日突然自分の顔の老化具合を知って突発的にビビるようなもんです。
 ちなみに「断つ」という行為は父性の象徴です。ネットでハッカーと呼ばれる犯罪者が居ますけど、ハッカーはもちろん英語のhackerですけどドイツ語でhackenという動詞は日本語で言うと「ぶった切る」という意味です。キリスト教でもその他の様々の宗教でも聖人と呼ばれていた人たちはおそらくこの状態(に極めて近いもの)で自己を保っていることができた人たちです。

 みすず書房刊の「分裂病の少女の手記」(セシュエー著)の分裂病の少女ルネの手記の項目6の冒頭にこれの体験談が分かりやすく載っています。直接引用はしませんけど、それが名前や機能や意味という種々の一面性のハリボテであれ、自分なりにgelesen(「読了」)していた情報の数々が、リアルなものものとして感知されだしたことにがとても異常に感じられると述べられています。で、これを著者であるフランス人の精神医学者Marguerite Sechehayeを含めてほとんどの精神科医はそのとおり異常であるとしているんですね。これを異常であるというのならば自分たちの歴史・哲学や文化を否定されたとドイツ人は怒ります。養老孟司さんみたいな人間も怒るでしょう。これは当たり前のことであって、当たり前でないところから当たり前な世界へ帰ってきたその心理的な衝撃によって異常であるという感慨が生まれているに過ぎません。が、もちろんそれは患者にとっては絶大な恐怖なので、即時のケアと治療が必要なのは言うまでもないことです。
 おそらくこの当たり前が当たり前である健常な人間にとってはこれはDaseinでしかないんですけど、これが当たり前でないところから当たり前なところへと帰ってきたスキゾの傾向を持つ人間にとってはDinge an sichになってしまっているんですね。このあたりに精神分裂病(統合失調症)というものの本質がありそうです。

 風水というものがありますけど、あれはそもそも陰陽道でその土地の地勢や水勢を占って墓地としてよいかどうかを判断するものでした。Freund Heinという記事で書いたように、墓地というのは集団への帰属を表すものであって、要するにそれ以上は変わりようがないところへ収められても土に帰るべく生気を失って動かなくなった死者が落ち着いているようにと墓として利用する土地のことをしっかり調べておきましょうという試みだったということです。たしか10年くらい前の一頃テレビ等で「風水的に見ると家の部屋の配置がどうこうで何々が良くない……」とかいったものが取り上げられていたことがありましたけど、部屋の家具の配置とかでもおそらく脳のクセ的に悪い方向を志向していると悪い配置に良い方向を志向していると良い配置に、という様に生活環境(社会環境)を形作っていきまたそこから影響を受ける、というのが人間であるということです。何度も言いますけど養老孟司さんという人が唯脳論という本でこういうことを言っています。例えば部屋の物の配置ということで考えると、人間は場の映像の形象的認識を作り出しまたその場の映像の形象的認識から(自己)認識を形作っていくということです。



 子供の頃に少なくとも今の30歳以上の人間がやらされたあの知能検査の類では、自分を取り巻く社会的状況つまりコンテクストを読む能力の性能の良し悪しについては計れません。社会的コンテクストを読むのが上手いが場合によっては意図的にそれを無視する都会の人間と空気を読めないというよりは空気を読むことに慣れていない田舎社会に生きる人間とでは、明らかに前者の方が能力が高いです。私は学生の時に宮崎県(?)の県の職員の人、たしか40歳くらいの男性だったと思いますけど、その人がプレゼンテーションを行っていたのを見たんですけど、自分の通っている大学の学生のプレゼンより程度が低いので唖然としたことがあります。
 養老孟司さんは「頭の良さは社会的適応性で計るしかない」と言ってますが、これは語弊がある上にちょっと言い過ぎだと思いますけど、賢さというのはやはり社会的適応性に表れると考えて間違いなさそうです。



 抗精神病薬というのは、そもそも「疑問に感じたこと」「他者を含めた外界からの抑圧・ストレス」「肉体の物理的な痛み」その他を患者の自己(self)の内側へ込めさせる非常に強い効能があるものなんですね。吐きたくても吐けなくなるという表現が正確です。飲み始めはそれまでの自己認識その他が壊れていくので非常に苦しいです。擬声語で表現するとアウアウアーな状態、まさに精神病者なことになったりもします。だから当然抗精神病薬を服薬中は勉強なんか全く出来なくなりますし、他人とは付き合えなくなります。もし仮に人と付き合おうものなら自分を表に出せず酷い場合には言葉を思い通りに吐くことも出来なくなって当然ながら頭の中は被害妄想怨憎になります。で、先の記事でも書いたように、一部の精神科医は抗精神病薬を投薬しながらロクでもないサークルへの参加を勧めて他人と交際させようとします。もちろんそのサークルには精神病患者を装った犯罪者紛いの人間がウヨウヨ居るということであって、社会的な側面から言うのならば悪質な精神科医はそこへ患者を落とし込もうとするということです。だから現状の精神医療においては、統合失調症の治療を行うということではなく、ただ単に抗精神病薬の服薬を継続するということにおいては、患者ではなく当該患者と接する人間の為に患者が犠牲になるということに落ち着いてしまうんですね。何度も私がこのブログで説明しているように、この精神分裂病(統合失調症)という病気は整った環境で一定長期間抗精神病薬を服薬してそして(まともな)医師の指示通り服薬量を減らしていってそして服薬を止めてはじめて完治、というものです。

 N田医師のクリニックは私がこのブログを書き始めてから客がピタっと居なくなりました。今時珍しい予約制ではない古めかしいところなのでそのことはよく分かります。それはもともとの客が減ったということでもあり、また俳優(サクラ)が俳優であったことが明るみに出されてそれらが居なくなったということでもあります。N田医師のクリニックでは、診察室へ入ると向って右斜め前方に医師が壁向きに座る机と患者が座る丸椅子があります。部屋の左半分はカーテンのようなもので隠されており、患者が座る丸椅子の位置から後方やや左斜めの位置に看護婦だか薬剤師がカルテを受け取る小窓口があります。で、何故か看護婦だか薬剤師だかが極めて小規模のクリニックに三人も在中しているんですけど、この三人が露骨に患者の話に対して声をあげたり音を鳴らしたりして患者に対する嫌がらせを行うんですね。というのは、その中年女たちの個人的な意思のもとそれが行われるというわけではなくて、彼女らはそういった役割を負っているということです。そしてその看護婦もしくは薬剤師の嫌がらせがある度にN田医師は「大丈夫だよ、心配しないで」という態度を表明して、先の記事で説明したようなミクロ経済的価値意識を精神病患者において再発・再燃させるという極めて悪質なことを行う、というわけです。N田医師も個人的な悪意に基づいてそれを行っているわけではなくて、N田医師はその場においてそういった役割だということです。もちろんこれは統合失調症を始めとする精神病一般を悪化させるものであって、悪質な精神科医というのはこういったことを行います。精神科クリニックというのはそういうものそういった場所だということです。ちなみにこのN田医師は軽くイデオロギーに汚れた御仁です。

 そもそも私的なことをいろいろと晒す以前にこのブログを書いている私が何処の誰であるか特定されているというのがそもそもからして犯罪のアレなんですけど、まあ我ながら犯罪者集団もよくやらかしてくれると思っている次第です。

 何度も言いますけど、統合失調症と診断された人は環境を整えてから抗精神病薬を服薬した方がいいです。吐き出せるものは全て吐き出してから、その後で。



 村上春樹さんの「1Q84」という小説のラストは、たしか主人公の男女二人が手をつないで走っているというものだったと思いますけど、あれで男女でやっちゃってるからいかにもベタ~な感じがするんです。人間には右側の脳みそと左側の脳みそとあるので、ラストで主人公が一人で立っていれば良かったんです。



 自分が何らかの行動を取る時には、単純に、「良いことはやる」を選択すればよいし、「悪いことはやらない」を選択すればよい、ということです。
Zephyranthes
 IQ100。
 イデアの影。




 近年大分減りましたけど、日本人は何故なんでもかんでも略すんですかね?「笑っていいとも」を「いいとも」と略すことすらウザいどころかあまりに不快感満面ではばかられるんですけど、あの昔あった当時の10代や20代が連発するイタい略語の群れ、酷い例だとドイツ語を「ドイゴ」と言ったり中国語を「チャイゴ」と言ったりするのが少なくとも私が学生の時はあったんですね。アレはドイツ人や中国人に失礼だと思わないんですかね?日本人においてこういったイタい略語を嗜好する傾向とコンテクストのreadの能力の低さは正の相関を示してます。要するにギャグや洒落が全く通じない……だけならまだしも、こういった人たちはそういった日常的な会話でバカにされることを恐れてギャグや冗談で言っているのではない相手の発言までもをそれであると勘違いして思い込んでしまうという傾向があります。これはその個人のバカにされてきたという経験が認知を誤らせるというコンテクストの誤認です。空気を読まなければいけないという強迫観念に押されてイっちゃってはいるが、その「イき」を的確な言語で表現する能力は無い、というパターンです。だからこういった人間は面白いギャグを見て万人が笑っているのに自分だけがそれを理解できないとなると怒りを感じ場合によっては妬みに走ります。

 例えば、中学かなんかの文集の作文かなにかで「普通でない人生を送りたい」という一見したところではこの上なくイタい内容を書いた子供がいたとして、それの実態はそんなくだらない文集なんかを作らせる馬鹿な教師に対するあてつけに過ぎないというかあてつけと皮肉以外のものではないのに、それをどっかのバカな若い女みたいに本音で書いていると勝手に解釈してその人物に対する攻撃の材料とする、という極めてイナカ者的なアレをやらかすカスみたいなのも居るんですね。要するにテクストは読めるがコンテクストは読めないという頭の悪い人間の為せる業です。

 小話を一つ。

「 Siは超女性的人間。差別心が強く、しかしそういった人間にしては異常なまでに言葉足らず。国語の教科書とかまともに読めない。性格が非常に単純。単純過ぎてギャグにはされるがギャグは通じない。同級生の悪童に「へちゃけ」「単純王」など仕草・発音・言動・行動の奇特さその他を露骨にバカにされる。運動神経がイカれてるのか知らないが歩き方が昔のガニ股おっさんみたいで滑稽。またいわゆる「フザけんな」だとか「ざけんな」だとかいう言葉を発するとき、Siの場合は「ふっ・じゃっ・けっ」(しかもここで終わる)という発音になるのでそれを悪童が猛烈にネタにして笑う。おそらくは「ふっ・じゃっ・けっ」で止めることによってSiは自分の怒りを表しているのであろうが、その怒りの表し方が昔の小学生が読んでいたマンガレベルの如き低レベルのものであり、そのSiの頭の悪さが実によく表れているその場のコンテクストを悪童は0コンマ何秒かの一瞬に読み取ってネタにして笑っているということである。また「マジでウゼぇ」と言う場合に「ま・ま・まっ・じま・っじ」とかいった発音になり、しかもその上口がパクパクしているだけで発音できていないどころか最後まで発音できないという有様なのでまたさらに悪童にはバカにされる。なんかイナカのヤンキーと痩せた朝潮龍足して二で割った感じ。ものすごく頭悪そうな感じがする。で話してみるともっと頭悪いのがわかる。奇妙にプライドが高くて他人に嫉妬しちゃってるのが小学生的なまでに単純に分かるのでさらに他人にバカにされる。自分を男前だと思いこんでいるので、というか救い難いのはその自分を男前だとの勘違いぶりを小学生的に幼稚に出す(出しちゃう)から最高に救い難くて同級生の悪童のイジめっ子のターゲットにされる。まともではないが一見一般人めいた正義感を持っているように見えて実はクズというこういったのが実は最もタチが悪いかもしれない。知識は必要外のものに関してはほぼゼロ、教養等は皆無に等しい。人とのコミュニケーションは異様なまでに下手。だから雑談をしても相手が気を使うばかりで相手にとっては全然面白くない。このレベルの低い知能程度の持ち主として頻繁に見られるようにアメリカを非常に嫌悪する。場の空気を全く読めない。だからドンデモ発言をリアル会話で真顔で言っちゃったりするのであろう。悪童達はまたこういったことを露骨にネタにして笑う。目の前のものには飛びつくが、先々のことを考えてそういったことを行うという発想や能力は全く無い。「オ、オ、オ、オレ税金払いたくないからよぉ~」とSiは言った。税金の使途を決めるのは官僚や政治家。それを取り決めたいというのであれば、子供の頃から勉強してレベルの高い大学に入り国家公務員Ⅰ種試験を受験して官僚機構に入っておくべきであったろう。関係無いがSiにその能力は皆無に等しい。だから文句を言うのは勝手だが、それを取り決める権限はSiには無い。赤子から老人まで誰でもこの日本という国においては何らかの形で税金を徴収される制度の下に生きており、また財・サービスを消費し経済活動に携わるにおいて何らかの形で税金を払っている。Siのような税金の存在を否定する人間は皆で協力して自分たちの生活を豊かにするという発想が無いのであろうか?小学生でも分かることである。基本的に自分のことしか考えていない人間。「自分のことしか考えていない」、自分の利のみを露骨に追求していることが露骨に分かる。あまりにその様が露骨である為、悪童がこれをまた露骨にネタにして笑う。これについては悪童だけではなくあらゆる人間の目に滑稽に映る。あまりに欲望に忠実すぎることがあからさまであり動物的というかサル的であり滑稽だからである。かといって非理性的というわけではない。だからこそさらにますます滑稽に見える。動物的なサル的な自己中心さが露骨であり同時にヒト的に理性的なので非常に滑稽に見えるということ。「オ、オ、オ、オレ税金払いたくないからよぉ~」と真顔で真面目に堂々と言うところからもそれは見て取れる。「何で君はそんなに自分のことばかり考えてるの?」というセリフを投げかけたくなる。あと全てに対して即自分の(金銭的)利得に結び付けて考え、しかも何故か必死。もう見た目露骨に頭が悪~いのが分かる。もうこりゃイジめられるわっていう雰囲気出してる。何もかもに余裕が無くてその結果として自分のことばっかり考えちゃってる感じ。大抵の人間は他人の行動なんてその表面のところの上辺しか見てないんで(何よりもSi自身がそういった物事の上辺しか見ない人間である)、そういった大抵の人間には「自分のことばかり考えてる悪人」みたいなレッテルを貼られちゃって、それでイジめの対象になったりするのかもしれない。しかしSi自身も自分の利の為なら自覚的に他人なんざいくらでも踏みつけて、そのくせ「オ、オ、オ、オレ知らねーからよぉ」というセリフを実際に吐くというセルフィッシュの塊のような人間。『中学の時にシンショー(身障)ウゼーからぶん殴ったら(自分の)母親泣いてたからよぉ~』と高校生の時に笑いながら同級生に言っていたことがある。最悪である。
 ……ユダヤ人である。低教育で教養ゼロでカネが儲かって性欲満たせりゃみたいな。こういった表現は非常に人種差別的なので使いたくないのだが、おそらくあの時代、このような人間がユダヤ人の典型であって、おそらくヒットラーはこれを最も嫌悪したのだろう。まあユダヤ人もまたユダヤ人の中で収容所作って気に入らない「同胞」をそこへ送り込むということである。ユダヤ人というのは強姦魔なのだろうか?いや、そうやってただひたすらに生きてきた人々なのだろう。」

 このSi君(仮称)は典型的なイジめられっ子なんですけど、かといってSi自身がバカにされることを理不尽であると認識するに値するような褒められた人物であるかというとそうではなくて中学生の時に知的障害者の人の顔を拳で殴って「中学の時シンショーウゼーからブン殴ったら(自分の)母親泣いてたからよぉ~」とか言ってそれを自慢しているような救い難いゴミクズなんですね。このSi君というのは典型的なコンテクストを読む能力が低い人間です。田舎社会にはこういった人間が多いです。主に都会の人間や教育レベルの高い人間に多いですけど、社会的コンテクストを含めてコンテクスト一般を読む能力が高い人間は弱いものをイジめるようなこういったことはまずやりません。そういったことが自分も含めて全ての人間にとって損益となるということを知っているというのもありますし、そもそもそういったことが道徳的によろしくない、許されないことだと知っているということもあります。褒められた人格の人間というのはそんなことは行いません。まあ私SSがここに小話として書いたものの中に登場するこのSi君が実在するとするとこれは典型的なクズであり同時にカスであるという人物です。

 これとはまた別口で、マスコミの垂れ流す情報がレベルが低くてその低俗さや俗悪さよりもそのレベルの低さに万人がイラつく、というのがあります。これは、意図的に秘密を作る、つまりナチスでヒムラーがSSの構成員に対して行ったような方法、もっと分かりやすく言うとヤクザ的な手法というわけではなくて、この場合においてはマザーコンプレックスの強い人間というのは無意識的なレベルダウンを行ってしまうということです。つまり先の記事のRPGの弊害で説明したような溜めるということを行ってしまっているということです。だから今のオッサン世代で多々居る人間のように幼い頃からゲームのRPGとかに浸されきっていると自分の中のマザーコンプレックスをどんどん増長させていってしまいます。それが自分が体験した(させられた)具体的な悪い個々の経験とあいまって劣等感や被害者意識・加害者意識がどんどん自分の中で膨れ上がってしかもそれを自分の中に溜め込んでしまうこともあるんですね。

 ネットでは社会的低層、一昔前のマスメディアでは下流と言われてましたけど、例えばアルバイターの人たちは「労働の意義」を持ってません。というのは当然単純労働なんかでは自分が所属する特定の組織に対する貢献の実感が労働の内容上ほとんど湧かないからです。よって彼らにおいてはほとんどの場合で仕事というものにおいて得る報酬が第一義になってしまってます。つまり感覚としては何でも屋であって、土地所有その他いかがわしい行為を法律で禁止されたならば金貸し業を営むしかないユダヤ人のものと同じ感覚です。そこで彼らはいつの間にか流浪民意識というかユダヤ人感覚を刷り込まれ、その劣等感が無意識的な他者への攻撃意識や加害意識に転化されます。ネットだと叩きだとか某動画サイトのように人ですらないものを露骨に馬鹿にするといった行動へと走ります。それに特定の人間や特定の一個人ですらないものに対する私怨が絡む場合もあります。分かりやすい例としては、全てがbotの為せる技だとかいうことであれば笑えますけど、(おそらく)そうではなくて、グズグズと他人を叩いているどうしようもない人間の行い、つまり小学生のケンカの際に発せられるような低レベルな言葉でののしり合いをしている(ように見せかけている)というものがあります。某巨大匿名掲示板群が特に幼児的なものとして非常に分かりやすい例です。どんどん負の感情のスパイラルにハマりこんでいく最悪なものがそこにできあがっています。



 仮にストーキングの被害者xさんに対して、ストーカーが「言うだけなら何とでも言える」かもしくはそれに近似する意味のセリフを吐いたとします。ストーカーに至っては、「(それがその行動の前提になっているような既の言に基づいた)行動」の前提となっている「言動」にすら辿りついていません。ストーキングは言など必要としない程に他者に対する純粋な加害行為だからです。xさんをストーキングするにあたっては、ストーキングの次になってやっと「xさんに直接コンタクトをとる、つまり言葉で直接話しかけるなりダイレクトにx宛てに言語で伝える」という「言うだけ」の段階が存在します。物事を知るという場合と違って、意思疎通においては言語を使用せずに詳細な意味内容を伝達することは不可能だからです。順番を間違えているどころか勘違いもはなはだしいです。その次にその直接の意思疎通に基づく肯定なりアンチなりもしくは何らかの(建設的な)行動なりという段階がやっとのことで初めて存在するということであり、これはストーキングではありません。ちなみにこのケースにおけるストーカーが女子高生だったりしちゃったりした場合は、笑えるとか陳腐であるとかを通り越して日本の将来が危ぶまれます。
 人間において、賢さは自然適応性(社会適応性)に現れますけど、頭の良さは言語使用性・言語能力に表れます。



 悪者と弱者は被ってますけど、稀に弱者だが悪人ではない人間というのが居るんですね。アインシュタインやヘッセのような偉人です。こういった人たちは能力の高低というよりはその悪行の行わなさ具合によって必然的に守られるようにできてます。

 悪い方向へ傾きつつも、その悪徳な方向の力で何か建設的なことを成し遂げた人間に、賞与のような証を与えることでその人物の現状を創り出すに携わった悪徳な人間(関係)をも肯定することができてしまいます。日本人によく観察される「みなさんのおかげです」というセリフはこういった意味合いを持っています。これは中島義道さんがおっしゃるように単にこのセリフが胡散臭いだとかそういった問題ではなく、悪いモノ(人間関係)をも現状を含めて肯定できてしまう最悪のやり口です。云わばcommunicationaized、陳腐どころか有害にも「人間関係工学化」です。こういった「みなさんのおかげです」の類の言葉を吐く人たちは、全てのモノ(人間関係)がよろしい方向のよろしい結果を導き出すことに役立った、という事実というよりは真実めいたものとしてそれを表明しているということであり非常に忌まわしいものです。
 そしてまたこれを批判・非難する人間の動機を嫉妬であると解釈してしまうのは早計です。批判ならば言葉を使って行われるのでよく内容を吟味してそれが間違っているか正しいか判断することができますけど、あまり頭の良くない人たちで非難や悪口しか言えない場合があるので、他者を故意に貶めて満足しようという余程のクズでない限りは、そういった人たちは誤解されやすいということです。これは嫉妬その他負のエネルギーに基づいているものではなくて、その何らかの形で肯定された人間の現状を現状たらしめる悪い要素(人間関係)を肯定することになることに対して「否」と言っているということです。ネットの掲示板での叩きや一見して悪口(あっこう)めいたブックレビューにはこういった悪徳ではないエネルギーによるものも見られます。ネットの場合は、某巨大匿名掲示板群での叩き等特殊な(幼児的な)場合を除いて、嫉妬や貶めで行われた場合は即叩かれて何がどういうことだか思い知らされるので。

 新聞とかは学生や勤め人が読む一般新聞とオバチャンが読むかわいそうな人の報道新聞を分ければいいんですね。障害者の人たちはそもそもそうですし、誰にとっても利益とならないような理不尽な不幸な目に合う人というのは居るので、そういった人たちに関する報道を行うことは必要です。



 私も不本意ながら「ネットで~」どうこうという表現を使ってしまってますけど、この「ネットで(何かをする)」という感覚に日本人の愚かさがよく表れてるんですね。ネットというのは現実世界におけるツールです。強いて言うなら何かをupするところです。またこの日本のマスコミが大好きな「ネット」と「現実」というものを互いにversusな位置を占めるものとして持ってくるところがさらにまた愚かな日本人的感覚の現れだったりします。ネットに関してもそうですけど、何らかの対象に様々な形でハマりこんでしまうオタクという人々は、必然的に興味や関心が向くはずの社会に意識が向かずにオタクになるべくしてオタクになってしまった逃避的な日本人の本質をよく現しているのかもしれません。

 オタクの人たちというのは素晴らしく現実的です。オタクが非現実的であるというのは単細胞なマスメディア周りの阿呆共による馬鹿解釈です。オタクというのは現実しか見えない物理的なものしか見えない人間のことです。現実におけるアニメを見て、現実におけるガンダムのプラモデルを何個も何個も作るということです。だからつまりハマりこんでいる対象はアニメでもガンプラでもなくて、現実世界におけるPCやテレビのモニターを使ってのアニメ鑑賞であり、現実におけるプラスチックモデルの製作だということです。「萌え」だって現実におけるアニメ鑑賞ということでなければ発生しません。単なるアニメそのものからは「萌え」の心理は立ちのぼってきません。つまり何らかの悪い外圧に因って他者依存・他物依存の性癖を仕込まれてしまったオタクの人たちというのは、悪質な日本のマスメディアの印象操作とそのオタク趣味にハマる自分を客観視するということにハマり込んでしまって「はぁ、オタクな自分はダメだなあ」という感慨を強迫的に抱かされて、ダメになってしまうというよりは現実における自己像を見て自己意識強迫的にダメにさせられてしまうということです。実際オタクの人たちにはその趣味において鑑みてみれば分かるように仕事能力が高い人間が多いです。いわゆる「アカ」な人間がこういった悪質な外圧を他者に対して加えます。危害を加える側危害を加えられる側共にユダヤ人化であって、これは70~80年前のドイツにおけるヒットラーとユダヤ人の関係そのものです。つまりはオタクなんてカテゴリーは存在せず真面目で能力の高い人間がオタク趣味へ逃げることへ追い詰められているという事実がそこに在るだけ、ということです。
 つまりは某巨大匿名掲示板等で10何年も前からいたずらな他者に対する叩きを行っていたブタ共の中にオタクはほとんど居ないということです。やっていたのは無知無能なチンピラや内田樹さんみたいなJudeな人間です。「特定のターゲットのなりすましを行い、現実のそのターゲットからは微妙にズラして演技を行いそしてこれを叩かせる」というブタ演劇をネットでクズ共が行うのは、つまりマスメディア周りの単細胞共と同じく単細胞な発想が連中の中に存在するからです。つまりそういった攻撃それそのものにはターゲットにとってそもそも攻撃効果は無いのにもかかわらず、それを行って攻撃効果があると単細胞共が思い込んでいるということの内側には、これが連中がオタクとは違って一つの構成体としてのアニメなりなんなりという非現実世界を生きてしまえる(認識してしまえる)という事実に基づいているということがあります。つまり連中が叩くところのオタクというのは連中自身のことです。主にオタクであるターゲットがこれに不快感を感じるとすれば、それは現実における実感として風景としてのワザとらしさにまつわるこの上無いウザさ、ということについてです。

 ちなみに私は具体的な何らかのオタク趣味を持たないオタクでした。



 ちょっと再び抽象的で分かりにくくて申し訳ないんですが、右か左かの二者択一ということで、「右」が定常点であって「左」に流されやすいのが人間であるとします。ストーキングについてもそういったことが言えますけど、他人を引き摺り下ろそうとする悪質なクズというのは、ターゲットにおいて一箇所外部的な定常点を作るということから攻撃を始めてきます。そこから被害者の具体的行動にまつわる心理や意識の流れを捏造、最悪な場合は人格までをも捏造して、それを被害者に押し付けるということまで行います。これは大塚英志さんが狙われやすいオタクの人たちのために「敵はこういった攻撃をしてくるんだぞ」ということを漫画で描いて教えてくれてました。これが友情だとか愛情だとかいった言葉で表されることもあります。あの恋愛アーちゃんパーちゃんと言っている女流だかの小説家なんかにコレを美化する豚が多いです。あんなブタ臭い子供騙しもおそらくう誰も見ませんけど。

 某巨大匿名掲示板等で何らかのキャラを捏造してまで叩きを行っている連中が何故現実検討能力の無さをこれでもかというくらいに顕わにしその幼児性を丸出しにしているかというと、つまり彼らは不良少年少女のように棄民されることに対する不安を常に抱えているということです。例えば「常に健常であること」という目的を達成するにあたって、現実問題としては、その時点で溜まっている様々の種類のストレスを吐き出してそこからストレスの溜まらない環境や肉体を作り上げそれからは事あるごとにその都度解消していく、というのが現実的です。ちなみにネットというのはこれに関して実に優れたツールです。ところが掲示板で叩きを行っているような頭の悪い不良人間というのは自分たちが社会制度上見捨てられた民になることに非常な不安を抱えています。つまり彼ら彼女らはどんな些細なことにでも悪徳である自分たちが見捨てられてしまっている実社会の縮図を(具体的にでもなく抽象的にでもなく)象徴的に見てしまっているということです。彼ら彼女らは典型的なユダヤ人です。そのユダヤ人である彼らが何を行うかというと、社会的なガンである悪徳な自分たちが制裁の対象からは外れるためにつまり無知無能だけならばまだしも悪徳なクズでありカスである自分たちが助かるためにあらたな被差別民族を作り出そうとするんですね。インドのカーストでもヴァイシャの下にチャンダーラやアチュータと呼ばれる被差別民族の人たちが居ました。つまり穢多が非人を作り出すということです。最悪です。だから他者を自分の下としての他者として作り出そうとするようなそういった悪徳なゴミ共には働いてしかも金を稼いでもらったら困るんですね。ホームレスのおじさんたちだって空き缶集めをやってくれてます、悪徳なクズ共よりはるかにいいです。クズというのは伝染し、クズはクズを呼びます、というか健全な人間がクズにされてしまいます。女性は社会的弱者としてというよりは生体的に要因からしてこういったあらゆる意味での差別の元凶となってしまうことが多いです。だから私は女性には近寄りません。また現代の精神医療において抗精神病薬を乱用・過剰投与しようとする精神科医もこれに該当します。私は自分の父親がこういったヒットラー的異常者の典型でした。社会的適応性が皆無な分際で社会的適応性があるかのように見せかけ、そしてその実態は人様を脅し蹴落とし悪質なやり方で社会でのし上がった「若い女」のような「アカ」です。(この男、人によっても状況によってもコロコロコロコロ態度を変えるので悪質な女性的人間の典型例として非常に分かりやすいんですね。前の記事でも言ったように多くの人様の恨みを買ってます。今でも家にはわけの分からない電話が掛かってきますし、私が中学か高校の頃に同じ人間であると特定されいるにもかかわらずその人から三年間にわたって嫌がらせの電話が深夜に掛かり続けてきたことがあります。昔私が学生で家の近くのアパートに住んでいた時、「お父さんは何をやっているのかな?」とヤクザの身なりをした男が新聞の勧誘を装って来たこともありました(新聞の勧誘がヤクザを装っていたのかもしれません)。関係無いですけど、この私の父親というのは、私が幼児の4歳か5歳かの子供の時からずっと行っている、被害者(私)に被コントロール感を植えつけるという加害行為をいまだに行ってくるんですね。例えば、先の記事でも書いたように、抗精神病薬を服薬した時は睡眠が長くなるその他の原因で家族にはそのことが認知されるんでしょうけど、薬を飲んだ時に限って「薬を飲め」とわざわざご丁寧にも睡眠中の私の部屋のドアを開けて言うというご苦労さんな行いを私がこのブログにおいてもを含めて指摘しているにもかかわらず何度も何度もサブリミナルを掛ける如く行ってきます。これは先の記事でも説明したように、被害者xさんが特定の行動Aを取った時に限って「行動Aを取れ」と加害者がxさんに命令することを繰り返すことによってxさんは加害者に対する妄想的な被害感と被コントロール感を煽られ、そのうちに加害者にコントロールされるようになっていく、という悪質な手法です。ナチスでヒムラーが行ったのは「秘密」、ストーカーの場合は(主に)「言動」、私の父親の場合は「精神的外傷を残す」、という外部に定常点を作って被害者を悪い方向へ引っ張るというやり方です。これについては睡眠中というのがポイントです。被害者が睡眠中に行うことによって、ほとんど眠りの中にあって覚醒していない被害者は簡単に加害者の暗示にかかってしまいます。というかもはやこれはヤクザのやり方です。私の父親はヤクザではありませんけど、ヤクザ並に悪質であり精神の構造的にはそこらへんのゴロツキと同じカスです。親族中でも当然のことながら昔から凄まじく嫌われてます。)

 心理学でMBTIというものがありますけど、あれで最初の項目にintuition(直観)かsence(感覚)かというものがありますけど、おそらくこれで直観型と出る人間が左方向に傾きやすいです。私は学生の時にMBTIを受けたら四つのうち最初の項目は直観型のIと出ました。今はおそらく感覚型のSと出ます。アメリカ人の場合だと、人口の1/3が直観型で2/3が感覚型だそうです。



 現行の精神科医が診断を下すところの統合失調症というのは、オカルトペテン性格判断と同じくマザーコンプレックスの具現体です。別に全ての精神科医が悪質なマザコン人間だと言っているわけではありません。現代日本の精神医学がカルト性格判断宗教に比べて救い様があるのは、そういったミクロ経済的価値意識に浸されたマザーコンプレクッスに汚染された人間を集めて具体的な診断基準というふるいにかけて「統合失調症患者」を設定し、その社会的(生活環境的)に設定された統合失調症患者(における全ての行動)というデータから統合失調症というdie Krankheitをまたあらためて作ってゆき、そしてそれを投薬や精神分析その他の療法によって治療して救っていこうそしてまた社会を良くしていこうという点にあります。しかしつまるところ、極端に言うと、統合失調症と診断された人間の行動は全て統合失調症の症状であると特定の個々の人間であるに過ぎない精神科医によって断定することが可能であってしまうということが現代精神医学の負の側面であり、マザーコンプレックスの表れです。実のところ精神科医でここまで悪質なことを行う人間はそんなに多く無いです、が、ちなみにマザコン人間である私の父親は精神科医でもない分際でこれを私に対して行いました。また、抗精神病薬の副作用(とされているもの)によって引き起こされたものを統合失調症の症状であるとし自分たちの診断の確証性を高めるためにそれを形作られたdie Krankheitに含めるということをも行う悪質な精神科医も居ます。誤解の無いように言っておきますけど、ヒトの脳における分泌物質その他を調べてその機能周りが異常であることが判断されたところの病気、つまり統合失調症という病気は存在します。だから、何でもかんでもただ薬を飲めばいいというのは大幅に間違ってますけど、治療において服薬は間違いなく必要です。それに+αで精神を病んでいる患者に対してナメた加害行為を行う悪質な精神科医が居るということです。中には、統合失調症と診断された患者に対して、その人間が投薬による治療を素直に受けていると、その人間が自分を統合失調症ではないと思っているかのように印象操作や言動によって釣ってくるという精神科医が居ます。これはストーカーが被害者に対して行う思い込ませの攻撃と同質のものでありまた同時に先の記事で説明したようなミクロ経済的価値意識を再発・再燃させようとする極めて悪質な行為です。というのは、この場合では、精神科医の間で「自分が統合失調症ではないかと自ら精神科医に申告してくる人間に統合失調症患者は居ない」ということが定説になっているようなんですけど、普通に治療を受けている患者に「自分は統合失調症ではない!」と言動なり態度を表明させることによってその精神科医自身の診断の正当性と過剰投薬を含めた投薬の為の正当性を確保するという目的があるんですね。精神科医のこの行いはもちろんレイプです。最悪です。
 オカルトペテン性格判断は、女性にとって都合の良い一見して具現化されたところのマザーコンプレックス(女性「原理」は形容矛盾)がある程度まで推進されたところで、そこで人間にまつわって仮初めの社会制度(社会環境)を作り出しさらにそこを定常点として被害者を留めておこう、という原理的に女性たるものをこじつけようとその社会化を狙ったものです。だからオカルトペテン性格判断はアマゾネスのような謂わば女性(原理)的軍国主義であって非常に悪質です。まさに人食い共産ユダヤ人の為せるアレです。結果女性がレイプされる環境が出来上がってしまうわけです、まさに女性の手によって。

 私は幼稚園・小学校・中学校・高校・大学と一部の賢い女性を除いて老婆から若い女から餓鬼まで母親を含めて女という女に嫌な思いをさせられ酷い目に合わされ続けてきました。これはヒトのメスというカテゴリーだけにとどまらず女性的な人間一般全てについてです。だから女には近寄りませんでしたし、これからも絶対に女には近寄りません。私がそもそも女性に嫌われるのでこれについては問題がないです。私は男性の肉体を見て性的欲望を感じることは無いのでホモセクシャルではありませんけど、女は死ぬほど嫌いです。特に若いケバケバしい女とか。

 私の母親は相変わらず今でも私が外出その他で自分の部屋を出た隙に部屋に長い髪の毛を一本落としておくという嫌がらせをしてくるんですけど、これもまた外部に基点を作ってターゲットに心理的に被害者意識の火種を作って堕落させるという攻撃の一なんですね。ちなみに被害者が統合失調症であるという診断を精神科医から受けた場合であると、加害者が悪質な場合は、これにかまけて何でも加害者側が行ってしまえるという最悪な犯罪行為がそこに出来上がってしまうケースも多々あります。私はこれをやられました。

 これらは全てマザーコンプレックスという妄念の為せるワザです。身体的に男性に比べてハンディキャップを負っている女性としては、「(無根拠にも)男性が人間としての女性を求めている」ことにしないと社会環境上都合が悪いわけです。
 つまり今の日本の社会というのは、67年間かけて男がマザーコンプレックスの具現体たる女性(原理)に逆レイプされて出来上がった側面をも持つということです。もちろん当然そこに生きる者としての体感で感じられる上では社会は良くはなってます。これは例えばストレス解消が容易になったとかそういったミクロな観点からのみ言えるものではなくて、ネットの登場によって社会全体のtemporaryなmemoryの許容量が上昇したということです。

 ユダヤ人というのは自殺の民です。時々、「死の観念が具象化された」というような表現があてはまるような、想像しやすくビジュアルで言うところのスケルトンみたいな人が居ますけど、こういった人はJudenではなく、その真逆です。「生の象徴でありながら死を志向する」からこそJudenであり、醜い肉塊なわけです。Judenと真逆の人は「やすらかな死の為に生を志向している」という形容が適切です。女性が男性を愛する場合はどうだか知りませんけど、男性が女性を愛するにおいては、「良くないものを無理矢理良いと思い込もうとする心理」というものが働いています。だからつまり文化人類学的な側面から考えても日本人には男の子女の子キャッキャウフフなそういったアベラールみたいな馬鹿が多いということです。要するにこの「良くないものを無理矢理良いと思い込もうとする心理」というのは、納豆だとかクサヤだとか異臭を放つものやゲテものを「、だがそれがいい」といって好む(異常な)心理そのものです。これは私個人の女性を差別する心理とかではなくて、人間というのはそういうものである、ということです。

 念のために言っておきますけど、軍国主義なんてものは最悪です。戦争は悲惨であり最悪です。が、戦争さえ無ければ何をやってもいいという発想がまさにユダヤ人のものなんですね。たしか左翼を自称している島田雅彦さんという人が、「ああである、こうである、しかしそれでは戦争になってしまう」という、(戦争を避けるためには)こういった結果何をやってもいいという状態になることを肯定せざるを得ないという内容のことを新聞で書いてました。ああいう人たちは何が何でも戦争に"Non,"を突き付けるというところから思考を出発させてます。戦争というのは人類史上種々の要素を鑑みた結果最悪の行いであるということであって、無根拠に戦争を否定するのであっては何故戦争が起こるのかといった教訓を得られずにまた同じ悲惨な戦争という愚行の繰り返しという頸(くびき)から逃れられません。そして今現在結果どうなっているかというと、この日本という国は莫大な借金を抱えてクズみたいな人間とそれを養うための社会に害毒撒き散らすような有害な職業が乱発生させられ人々は互いに憎みあっているという、戦争が内乱に転化されているという共産主義的もしくはユダヤ的な最悪の状態です。これが日本という国の内部において技術革新にプラスに働いているかマイナスに働いているかというとおそらく後者です、ヒトという生き物の生態的に。



 ネットではナチス的な空気をひたすら広げてます。正確に言うとこれは空気ではありません。というのはもちろん特定のゴミ共がまるでそれが大多数の人間のそれであるかのように見せかける為に特定の意志やカネの力のもとそれを行っている、ということです。例えば私もこのブログで書きましたけど、「日本製の製品を買おう」といったようなものはいいですけど、「覚醒剤はすぐれた薬物!」とか言っている某巨大匿名掲示板群の馬鹿共が表象している様に、これは右翼がどうこうといったようなものではなくて、一部のArbeiterpartieな無知無能なチンピラのゴミが自分らに都合の良い一見してシステマティクであるところのニヒリズムをギャーギャー騒いでわめき立てているだけです。こんなチンピラに右翼的な何かを自称されると右翼主義者の人たちも迷惑するんですね。工業高校の生徒だって真面目な人間は真面目ですし、工員さんだって立派な人たちは立派です、そうでなければ彼らだって仕事になりませんから。

 広告にもマンガ的な宣伝の仕方が使われていて非常にウザいです。広告の宣伝文句もビジュアルも全てネットで言うところの中二病な発想のもと作られていてそれが随所に現れていて視界に入るだけで不快になるんですね。アレは自社の製品やサービスに対するネガティブキャンペーンを行ってるんですかね?まあ全く興味を持たれないことが売り手にとっては最大の脅威なわけであって、ウザがられてでもいいから認知されたいというのがああいった宣伝屋共の狙いです。ストーカーと同じです。だからマスコミや広告宣伝屋だとかの賎業は全国民に対するブロードバンドなストーカーだというわけです。

 頭は良いが馬鹿な人間、というのがいらない技術を作りまくるんですね。つまり社会制度的に人権は当然としても女性の自由みたいなものが保障されているここ数十年のこの国の社会においては、大方の男性たちにとって自分から頭を突っ込んで馬鹿になって無知な女性たちにとって都合の良い社会を作り上げることに貢献することが女を得るための条件になってしまっていたということです。一見してもの分かりのいい人間を演じているような内田樹さんのような人間が分かりやすい例です。私はそんなものに加担するなら死んだ方がマシであると10代の頃からずっと考えていたので、女には絶対に近寄りませんでした。
 ちなみに内田樹さんはマンガを「映像と文学(物語)のハイブリッド(?)」とか言ってるんですけど、武術を研究している人間にもかかわらずいったい何を考えてるんですかね?あの漫画を読むという行為は、頭を使ってのその内容の吟味云々は別問題だとして、身体の使い方としては最悪なんですけど。うつ伏せに寝転がった状態で肘をついてマンガを読んでいると売春婦コースまっしぐらです。東京大学出版会から「知の技法」という本が出てますけど、ああいう左からめくって右で終わるという横書きの本が内容とは関係なく身体の使い方としてはバランス的に良いです。
Veni, vidi, vici.
 「私の闇が白昼のようになる」。




 村上春樹さんの「風の歌を聴け」という小説にデレク・ハートフィールドという人物のエピソードが出てきます。フロイト先生がもし知ったら喜びそうな、性欲も含めて吐き散らかして書きなぐった挙句に"Heil, Hitler."で自殺した、みたいなことが書かれてます。人間関係はもちろんそうですけど、ヒトにおいて情報がストレスになるというのはあります。仮にそれが一見してストレスだとは感じられないようなものでも、何でもかんでも情報をsaveしておくのがいいというわけではないです。そこでオススメなのが、このブログの記事で何度か書いているように、経験したことや知ったことを何でも言語化して記述するということです。あいつがウゼえだとかダリーとかクセぇとかブサイクだとか書きまくるんです。書くことで自分にとって不愉快な情報が自分の手によって固定化されることで記憶から消去されます(他人の手に委ねたらダメです)。これがものすごくストレスの解消になるんですね。行動を起こすに躊躇することがなくなって、下手をすると運動しようかななんて気が起こったりします。たしかドストエフスキーの小説のどれかに、なんとかで若い頃転んでも特に野望のある人物でない限りは年をとってから多少肝臓をいためる程度のことであるとか書いてあるものがありましたけど、「酒を飲んで忘れる」というハイリスクでゼロリターンどころかさらに憎しみが膨れ上がって記憶に定着するような負のリターンを生む最悪な行為に及ぶ必要はないです。どんどんワープロソフトでもNOTEPAD.EXEでも使って言語化して記述していけばいいです。
 右傾化というとちょっと表現がおかしいですけど、ストレスを解消すれば健常なところで身体的に固定化して実存しない精神的なものは限りなくゼロに近づくということです。

 精神科医の先生が言ってましたけど、寝酒というのは最悪らしいです。睡眠誘発効果どころか睡眠に障害をきたすから絶対にやってはいけないということです。アルコールの害というのは計り知れないほどに強大みたいです。大学のサークルだかで強制的に酒を飲ませるとかいったのは論外です。マスコミの馬鹿共がよく言ってますけど禁煙がどうこうとガタガタ騒ぐ前に、禁酒法を作ればいいんですね。私は酒も飲みませんしタバコも吸いませんけど。ちなみに若い女の様にヒステリー症であり「他人の嫌がることをすすんでやります」と顔に書いてあるような私の父親という人間は、「酒は人格を崩壊させる」と言いながら毎日酒をガバガバ飲むというどうしようもない習慣があります。若い女がセックスにハマって売春婦化していくように快楽主義的であってどうしようもないです。



 最近大阪市長の橋下徹さんが小学校に留年制度を設定しろと言ってましたけど、そうではなくて小学校の時点から学力別にきっちりクラス分けすればいいんですね。学力の高い子供たちが形成する社会環境は生活環境においても人間関係であっても良いものが出来上がります。人間誰しも皆良質な社会環境で生活したいわけであって、留年制度を設けるというやり方よりも、このクラス分け等によって劣等で悪質な粗暴児等とまともな子供たちの環境や人間関係をきっちりと分断することで子供達に勉強をすることへのincentiveが生まれます。実際フランスでは留年制度は劣等児を増やすだけであって上手くいってないそうです。それぞれの子供がその生育においてどういった社会環境を生きることになるかということを決定づけているその親も重要な役割を担っているのであって、残念ながら官吏やエリートサラリーマンの息子とマスコミ屋の息子とカンバン屋の息子では人間的な性質に上中下の差が有り過ぎます。しかも後者はやたら上昇志向が強くて他人を引きずり下ろそうとするケースが多々あります。豚は嫉妬豚です。豚というのは例外なく嫉妬豚です。あまりに理不尽な経験をしすぎて嫉妬や怨みその他負の感情が強すぎると、人間は自分が他人を恨んでいたり他人に嫉妬していることが自分で分からないまでに客観性を失います。自らも豚になる上に他人も豚へと引きずり下ろしていくということです。また、豚が形成するそういった不幸な社会環境を経験したことの無い人間は、そういった豚も豚が作る社会環境も知ることは無いので、不幸な人間が何故不幸であるかということやまた不幸になるかということをを知ることがありません。私はJudenであることから何とか脱したので自分が如何に豚であったかが今はよく分かります。
 「悪い方向」へ傾いているから、いくら圧力をかけられてもどころではなく圧力をかけられればかけられる程に悪くなって精神も肉体も膨れ上がります。人間の場合は気圧の様に単純に外圧をかければへこむというものではないです。こういった悪質な単純思考を極めたのがナチスでした。現代ではネットがあるのであらゆる人が救われてます。

 子供を守る母親の心理というのは、女はそもそも自らの呪い・憎しみと区別のつかないいわゆる愛情とやらの産物として子を産むということに基づいてます。つまり女というのは自らがその現在まで生きてきた全ての社会的経験の産物として「子供をつくる」ということです。だから一見したところではベタに見えるものでしかない昔のマンガやドラマでは、女が自分の命と引き換えにすらも自分の子供を守ろうとするシーンが描かれていたりします。自分の子供を殺そうとする女というのは、レイプされるのが好きな女であり売春婦の売春婦たる女王です。最悪のクズです。
 ちなみにドイツ語でDameというのは(嫌味な意味で)「ご婦人」「女」「女王(気取り)」という意味です。要するにbitchのことです。

 先天的に障害を持つ障害者の人たちは当人には全く非の無い負い目を負いながら生きてます。私は神父さんや坊さんではないので詳しくは知りませんけど、これは宗教の類でいうと、業(カルマ)を背負って生まれてきてその生を生きなければならないというものです。歴史上ユダヤ人だってただユダヤ人であるからという理由でユダヤ人学校等社会的に隔離された環境で教わるべきものを教わる機会を全く奪われた上で差別されていたのであって、それを差別したり虐殺したりしたところにヒットラーやナチスをはじめ迫害を行った者達の愚かさがあったということです。現代日本の義務教育は、こういったことを止めて万人に等しく機会は与えるべきであるというところにその本意義があります。が、しかし、むしろJudeな人間たちが自分たちから差別されたがっているという現状があります。一昔前のマスメディアが喧伝していたところの「下流志向」です。そういった人間たちはマザーコンプレックスで盲目的になってしまってます。マザーというのは最後の最後で愛していたものを捨てます。少なくともヒトのメスにおいては種の保存の欲求よりも自己保存欲の方が優位にあります。だから先の記事でも言ったように母親というのは自分にとっての最大のユダと考えるのが妥当です。にもかかわらずユダ(ヤ)というのは母親を求めるから愚劣の極みだということです。そしてその差別されたがり達がまともな人間たちを汚染して引きずり下ろして悪くしていく程に悪質であるというのが事実であって、おそらくヒットラー的思考というのは「何が何でもユダヤ人を殺してやる」というところからではなくこういった悪を志向する愚劣な人間たちがそこに居るという現実を見てしまったというところから出発しています。



 戦前の時代に生きていた人たちは「アカ」が有害であることを分かってました。それに乗じて米英が鬼畜だとか言っていたのはその時代に生きていたそのアカ以外の人間もまた同じく無知で愚かであったということです。他人の不幸を蜜の味であるとの認識から離れられないから「アカ」だということです。現代の日本であってもやたらと中国の人たちを侮辱したりネットで叩いたりしているのは同じく「アカ」な連中です。共産主義者を自称している人たちだってどう鑑みても「アカ」とは呼べない人たちだって居ます。
 高度経済成長期以前の大昔は何もかもが工学的でした。川端康成原作の「雪国」の映画で駒子を演じた女優の岸恵子さんはフランス人の男性と結婚する時、「毛唐の嫁になるような女優に駒子が演じられるはずがない」と言われたと自伝で書いてます。この発言をした人間はどう鑑みても明からさまな「アカ」ですけど、おそらく当時の右翼です。Jean Calvinの唱えるところの予定説なんてものは露骨なまでに帝国主義的人間関係工学意識の表れです。最悪なまでに「アカ」いです。つまりそういった知の観念や意思のもと特定の人間たちが特定の場所へ集まり特定の集団を名乗るので、それらのうちの一つとして「共産主義」なるものが「アカ」と呼ばれていたということです。見るものの男性ホルモンの分泌を促す赤い色を発する、若い女に象徴されるような、コミュニティーの内部では殺しあう共産主義ということで。
 現代日本で都市部で教育を受けている子供たちや若者たちに「共産=アカであってどうこう……」と言っても全く通じません。別に若者たちが無知であるというわけではなくて、もちろん一定以上の学力を持った若者たちのことですけど、ネットや様々のデジタル機器の高頻度での使用ということもあって若者達はそれを大きく超えた知的能力や現象に対する読解能力を持っているということです。養老孟司さんという人の憂いは、結果としては若者のこの読解力の高さを憂うということに帰着してしまっています。つまり何が問題であるかというと、若者に能力が足りないわけでもなく自堕落なわけでもなく若者はそのあたりのことを学校でも親からも教わっていないということです。偉大な先人たちによって進歩してきた技術によって、そういった政治政党的なイデオロギーめいたものの認識はもはや必要が無いということです。

 たしか二葉亭四迷だったと思いますけど、150年前の明治の開国期に英語を国語にしようと言っていた人が居ましたけど、そもそも最初から英語を国語にしておけば良かったんです。そうすればおそらく近代における少なくともこの日本という国にまつわるもろもろの悲劇は起こりませんでした。

 マザーコンプレックスの権化たる世の中心地なるものは現代では無くなりました。というかもう何十年も前から無くなっていたのに在るように見せかけてその見せかけで存続してきていたものが実は無いものであるということが近年デジタル技術の発展によって判明したということに過ぎません。

 日本人は「思って」ばかりいます。感情で全てをgelesenするので「存在の機」を持った他人は全て敵であり、傲岸不遜な兵隊ヤクザが昔は幅を利かせて滅茶苦茶をやってました。この囲われた鬼ヶ島では、江戸の昔から女性はレイプされながら生きてきました。小奇麗な時代劇なんざ凄まじいほどに作り物のまやかしです。江戸の実態を知っている者としてはとてもではないが江戸時代を肯定したりはできません。私は黒澤明監督の映画とかは見たことないんですけど、北野武さんはそういった暗部を垣間見せるような場面を映画作品の中で作ってます。
 昔の日本人は全てスキゾであったと言っても過言ではありません。日本語がそもそもそういった言語であり、主語を欠いても意味が成立してしまうようなあまりいい言語ではありません。おそらく時代劇の製作者でもこのことを理解している人が居て、例えば「稲葉山城、陥落してございまする」というセリフに見られるように、この場合だと「が」という言葉を抜いてますけど、これはゲルマン語的であって良いです。これをものものしいという感慨で嫌うのは間違ってます。

 歴史的流れから言って、賢いイギリス人にとっては名詞の性を失ったことが利益だったんですね。これは英語という言語がどういった言語か勉強すれば分かります。英語の言語構造から近代イギリス国家の帝国主義性までを繋げて論文を書いている学者がひょっとしたら居るかもしれません。逆に愚かとは言いませんけど女性的な日本人にとっては名詞に性が無いことがかなり不都合に働いています。だから米英からしてみれば良かれと考えて行っていることも、馬鹿な日本人にとっては「イギリスはずるい国」と映って言いがかりをつける連中が居たり、また「鬼畜米英」と映ってそれを標語化するという行為につながるというわけです。



 私の父親というのは戦時中であったらば即徴兵されるような「アカ」です。こういったアカな人間というのは家族だろうが友人だろうが知人だろうが関係なく全てを自分の利益の為に利用する、最悪の場合全てを自分のキャラ立ての為に自分より弱い者は誰でも故意に踏み付けて相対的に自分のポジションを上げるという穢多豚の所業を行うんですね。私の父親はまさにこういった人間でした。だからアカには子供を作らせたらダメです。もう子供の時点で人格検査を行って法律で生殖行為を禁止しないとダメです。アカは大抵子供を作りたがりませんけど、中には子沢山に走るのも居るんですね。
 ちなみにその息子の私にも若干アカの気があります、なるべく自分の内からそういったものを消そうと努力はしていますけど。

 自分の子供を虐待する親の心理というのは、「自分」なる人間を工学的に捉えて、その一個の完成されたシステムであるところの自分が行うことを絶対的に正しいと思い込み考えるところから他者に対して「システムとして完成された自分なる人間を押し付ける」、ということから発しています。自己の存在に不安を抱えた人間が行う他者に対するレイプです。現代でいうと統合失調症患者に代表されるいわゆるキチガイ、少し前だと宮崎勤連続幼女誘拐殺人犯的変質者、今でもネットの少し小暗い所を見れば分かる通りこういったのがまだウヨウヨ居ます(居ました)。つまりその絶対たる自分が差し向ける暴力を肯定できない他者は絶対たる存在ではないという非常な単純な思考の運びによって、こういった人間はそれを自己内肯定します。しかもあろうことかこのヒットラー的ユダヤ人であるこの私の父親、「ボクはセイクリッドな人間なんか認めないからねっ」とホザいているクズでもあります。つまり自分を神だと思っているということです。まさにチャップリンにネタ劇の笑いの材料にされる総統閣下です。どうしようもない馬鹿です。この男あまりに人間的につまらな過ぎて会話とかロクに出来ないもので、子供の頃から人様にバカにされまくってきたという「歴史」をご丁寧にもお持ちです。ちなみに分かりやすくマンガ的キャラで言うとジャイアンではなくてスネ夫です。Oliver Hirschbiegel監督の「ヒトラー ~最期の十二日間~」という映画がありますけど、この映画でBruno Ganz氏演じるヒットラーがあまりに自分の父親の特徴を的確に表現しているので驚嘆しました。これに登場するヒットラーの愚かさや子供じみた馬鹿さ加減や陳腐さがあまりに自分の父親のそれと同じなので感動すらしました。
 これが心理であるというのは、私の父親はこういった精神異常者であり犯罪者の典型ですけど、これを故意に行っているという自覚はご本人様にもあるということです。というのはこの男警察が恐くて近寄れません。先の記事で言った、私を訪問してきたヤクザというのは下手をすれば父親の敵ではなくて父親の回し者です。私が通っていた精神科クリニックのN田医師とて私の父親のせいで犯罪に加担させられた犠牲者の一人です。父親の部下だった人に直に聞いたんですけど、弱い対象である自分の部下に対しても横暴を振るう人間だったみたいです。


「 しかしこのような記憶のはたらきが心象によるものであるかいなかを、だれが容易に決定することができようか。実際わたしがあるものを石とよび太陽とよぶとき、そのもの自体はわたしの感覚に対して現存しないかもしれないが、しかしそれらのものの心象はたしかにわたしの記憶のうちに存するのである。わたしは身体の苦痛ということを口にするけれども、なにも苦しくないとき身体の苦痛はわたしに対して現存しない。それにもかかわらずその心象がわたしの記憶のうちに存しないなら、わたしは自分の口にすることを知らないであろうし、またそれについて語る際に、それと快楽とを区別することができないであろう。―後略―」

 これはAurelius Augustinus著"CONFESSIONES"(「告白」)よりの引用です。ここで聖アウグスティヌスが言っているこの区別できなさが極めて危険である、ということです。これが他に向いたのがヒットラーや私の父親であり、内に向いたのがユダヤ人です。


 そもそも父方の祖母が若い頃に苦労をしたような強迫神経的な目的達成偏重とでも呼べる異常者でした。私の父親はその異常者である祖母に子供の頃虐待に近いことをされたようです。

 ユダヤの人たちはそもそも第一手目に理不尽な目に合わされるという社会環境を強制されてきました。自分の存在の無根拠な不安を満たすために自分の存在を存在のみで主張するという、甘えを基調とする「アカ」がこういった社会環境を作り出し、あろうことか子供まで作るという行為に及ぶからさらにますます「アカ」であるユダヤ人が増える、ということです。それを憂いて虐殺に走ったヒットラーもまた同じく「アカ」でした。「僕を分かってよ!」というエヴァンゲリオンだかのブサイクアニメキャラと同じです。そしてその理不尽さを転化させてのしめっぽい商売を行うしかなかったんですね、こういった人たちは。Susan Forward著の「毒になる親」という本が出てますけど、こういった「アカ」には生殖行為を禁止して数を減らしていかないと最悪なことになるんですね。そのうち「アカ」には選挙権を認めないとかいったことになって「アカ」自身も悲惨な目に合うことになります。

 陳腐な人間関係工学化が陳腐であるだけにとどまらずどういった様に有害であるかというと、人間関係という他者との間に一見したところでは在るかのように思えるだけの漠然としたマザーコンプレックスな妄念が固定されることで、人間たる自己の内部までもが固定されるということにあります。しかし同時に人間は他者と関係を結び社会生活を送らないことには少なくとも現行の社会制度や技術では肉体の生命を保持できないので、そこで何が起こるかというと、「『自分』なる人間を工学的に捉えて、その一個の完成されたシステムであるところの自分が行うことを絶対的に正しいと思い込み考えるところから他者に対して『システムとして完成された自分なる人間を押し付ける』ということを全ての人間が行う」という惨劇です。だから「アカ」は戦争が内乱に転化された社会環境で生きる共産主義者である、ということを(別方面からも)言う・考えることができます。

 こういった他人をダメにする「アカ」というのは「他者に対して人間的に足りないものを補おうとする」傾向というよりは性癖を持っています。これでまさしく人間ダメにされていくんですね。他者に対してその人間の短所を直接具体的にひたすら指摘するという行為を繰り返します。それは「アカ」が「アカ」たる自分の為に行っている行為であり、他人とってはいたずらに不快感を煽るだけのものであって何のメリットにもならないものであり、当然の如く「アカ」は他者から排斥されます。だからこそ「アカ」です。私の父親はコレの典型でした。



 予定調和の発想だとか歴史を工学的に捉えるということはヘーゲルその他西洋の哲学者や神学者たちが現代の人間達に残してくれた知恵です。歴史が自己をつくっているということであり、全ての存在は歴史的現在であり歴史的自己(Dasein)なわけです。これは過去の思い出に生きるということではないです、その真逆です。要するに分かりやすく言うと常に良い(善い)方向を志向して常にそういった行動をとっていれば物事良い方向に傾くということです。俗な言い方をすればチャンスが転がり込んでくるとかツキがまわってくるだとかそういったことです、良いことをしてれば。
 学校の勉強なんかコスパに捕らわれて一つの問題から多くを学ぼうとして曲がったことを行うよりただひたすら問題を解いていた方がいいです。というかそれが最もコストパフォーマンスの高い行いです。

 だからもう「著者+書籍」というものが終焉です。知は絶対です。数学的であるとすら言えます。それをただ言語で記述すればいいんです。だからこういったことに関しては、後は昔の偉人たちの残した著作とそれを読み解いて後世に伝えられる知識収集能力を持った人間が居ればいいということであって、だから先の記事で書いたように人文科学教育者資格試験制度を国家試験あたりで作ってそういった教育者を養成できるようにすればいいんですね。



 昼夜逆転の生活というのは最悪です。普通に夜しっかりと寝て昼間しっかりと覚醒している人たちは、覚醒剤使ってニュータイプになる必要も無いんですね。きちんと脳が覚醒していれば物事や他人のことが正確に理解できるようになるというだけの問題です。エニアグラムだかの、他者を挑発して、「自分」なる人間を工学的に捉えてその一個の完成されたシステムであるところの自分が行うことを絶対的に正しいと思い込み考えるところから他者に対して「システムとして完成された自分なる人間を押し付ける」という行為以外の何者でもない「タイプ判定」とやらで金を取るだけでは飽き足らず非健常者を何種類にも分けて「人間の性格はタイプ1、タイプ2、タイプ3……タイプ9に分類できます!」とかヌカして非健常者を釣ってメシのタネにしようとしているバカは有害この上無いアカい共産の新興宗教の教祖以外の何物でもないということです。しかもそれをダビデの星という具体的形象シンボルに焼き付けて被害者に記憶させようとするから最悪にタチが悪いわけです。これは陳腐にも人間関係工学化を試みて人間という人間を「アカ」化させようとする有害この上ない試み以外の何物でもないです。現代のイスラエルの人たちに対する冒涜ですらあります。

 私はこのブログで哲学の文言を引っぱってきてどうとか言ってますけど、そんなものより食習慣を含めた生活習慣の方が余程大事であるのは言うまでもないとして、そういったことは一見したところでは何について語っているんだか分からないような哲学であろうが食い物のことであろうが全部繋がって関係してるんですね。試しに辞書を引いて音韻・使われている漢字・固有名詞だったらばその属性等を並べて知識の図を形づくっていけばいいんですね。いわゆる勉強が苦手な人でもほんのちょっとした工夫で知識の輪が広がっていきます。中卒だろうが高卒だろうがそういったくだらない形式的なことはどうでもいいです。気付いた時から始めればいいんです。おそらく人間死ぬまで勉強は終わりません。

 ドイツ語というのは知恵の宝庫であり実に良い言語です。ドイツ語は英語よりも日本人には分かりやすいので勉強するのにもまったく苦になりません。英文法なんかドイツ語の初級を一通り勉強すればあっさりと分かるようになります。だからどんどんドイツ語の勉強をすることをお勧めします。
| prev | top | next |
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
カレンダー
03 2025/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30
プロフィール
HN:
SS
性別:
男性
バーコード
ブログ内検索
P R
忍者ブログ  [PR]
  /  Design by Lenny